なぜ多くの人が「仕事を苦痛」に思うのか…世界中で増える「クソどうでもいい仕事」の全容
秘書だけが忙しいという事態
これはわかりやすい例でしたが、もうひとつ、複雑になるとこういう状況もあらわれます。ある企業で働くオフィーリアという女性の例です。彼女の肩書きは「ポートフォリオ・コーディネーター」という謎めいたものですが、当人すらいまだになにがなんだかわからないらしいです。 彼女のやっていることは、お偉方の「パーソナル・アシスタント」(むかしでいう「秘書」でしょうか)ということらしいのですが、彼女の仕事は、かれらにはそんな仕事、エラすぎてできないという理由であてがわれます。 だからといって、かれらがその人たちにしかできない仕事で忙しくしているわけではありません。かれらが、なにもせず椅子に座ってぼーっと壁をみていたり、毎日30分かけてバックパックを整理したりしているなか、彼女だけがあくせく忙しくしているといったありさまなのです。 ところが、こうした論理のもとで仕事がつくりだされると、倒錯した力学が作動をはじめます。 多忙だという印象を管理職が与えるために女性の部下に職務を押しつければ押しつけるほど、じぶんたちの仕事は減っていって、その結果、かれらはますますやることがなくなり、オフィーリアのような人だけがやたらと忙しいといった事態が生まれるのです。そこに待っているのは、少量の必要な仕事とスタッフの多忙を維持するためだけにあるでっちあげの仕事です。 オフィーリアは、この例として、二つの自社ビルのあいだを管理職が行き来するとき、毎回、他方のビルの部屋を予約するための書類を作成しなければならない、という職務をあげています。これによって、彼女と他方のビルの受付は多忙が保障されるわけです。つぎの彼女の言葉は、その状況をうまく洞察しています。 ……そのおかげで、こうした諸々のペーパーワークをやりくりせねばならないわけで、受付係をとても有能にみせるのです。事務手続きの能率化に資する人材求むという求人広告が本当に意味しているのは、まさにこういうことだという気がしてきました。つまり、時間つぶしのために、さらなる官僚仕事をつくりだすということです(『ブルシット・ジョブ』58ページ) ここで少し問題はあいまいになります。オフィーリアの仕事は「ブルシット」として生産されています。ところが、ブルシットな仕事もたくさんしていますが、実質のある仕事も彼女(たち)が一手に引き受けています。「取り巻き」が、実質のある仕事をこなしていて、それによって取り巻かれる人間たちの仕事は、ますますブルシット化していくというわけです。 グレーバーは20世紀における女性秘書の役割をふり返っています。「名目上では、秘書とは電話対応や口述筆記、重要度の低い書類整理などのために置かれるものだが、実際には、しばしば上司の仕事の八〇%から九〇%、ときには非ブルシットな部分の一〇〇%を、彼女たちはこなしていた」。 その現代版が、このオフィーリアのような「パーソナル・アシスタント」なのです。そしてここには、もちろんジェンダーの関係がひそんでいます。男性は派手であるがしばしば空疎な仕事を演じ、女性が地味だけど実質のある仕事でそれを支えるという構図です。 いずれにしても「不必要な取り巻きがいったん雇われたならば、なんらかの仕事が取り巻きに与えられるかどうかは、まったくもって二次的な問題でしかない」(『ブルシット・ジョブ』60ページ)のです。問題は、とにかく「取り巻き」を雇うことです。 それからは、たまたまその企業で、どういう組織編成になっているのか、やるべき仕事が多いのか少ないのか、目上の人間の要求や態度はどうか、ジェンダーの力学はどう作用しているか、制度的な制約にはどのようなものがあるか、こういった要素しだいなのです。