渡米から約30年、″心の旅″に終わりなし…吉田栄作が語る「あの頃の尖った発言が今に続いている」
『もう誰も愛さない』のヒットで時代の寵児となるも、26歳の時に″無期休業″して渡米 あれから約30年、時代劇、舞台へと活動の場を広げ、妻とともに新たなステージへ――
「26歳で″無期休業″を発表して渡米した時、もう日本に帰ってくるつもりはなかったんです。全部やり尽くしたつもりだったけど、全然そうではなかったことに気付いたんですよね」 吉田栄作 スペシャルインタビューで見せたいぶし銀な魅力【本誌未掲載カット】 そう当時を振り返る吉田栄作(55)の表情は、穏やかで自然体だった。 19歳で後藤久美子主演の映画『ガラスの中の少女』(’88年公開)で銀幕デビューし、22歳で挑んだ主演ドラマ『もう誰も愛さない』(’91年・フジテレビ系)は視聴率23%超の大ヒット。俳優として多くの話題作に出演し、加勢大周(54)や織田裕二(56)らとともに″トレンディ御三家″と呼ばれ、人気を博した。 一躍時代の寵児となった吉田だったが、「当時は複雑な心境だった」と回顧する。 「16歳で芸能界を志して、この道を進むには有名にならなければいけないという使命感があった。だから尖(とが)った発言ばかりしていたけれど、今に続いていると思えば結果的には良いことだったと思う。 21歳の時に『心の旅』で『NHK紅白歌合戦』に出場、翌年には『もう誰も愛さない』がヒットし、思い描いていた自分になれているのに躊躇(ためら)いがあった。それは、『あまり下積みを重ねず、20代前半で夢を叶えてしまった』という喪失感があったから。このままでは良くない。帳尻合わせをする時間を持ちたい、と思うようになり、渡米を考えました」 芸能界での成功を投げ捨て海を越えたが、吉田に後悔はない。 「ロサンゼルスに行って本当に良かった。あのまま日本で仕事を続ければそれなりにお金は稼げたでしょうが、いわゆる″お金で買えないもの″をつかめたな、と」 ◆″時代劇″は道標 LAでは自分ですべてをこなす日々。芝居の勉強をして、オーディションを受け、ライブ活動にも励んだ。気の置けない仲間もできたと振り返る。 「ある日、LAで行きつけの蕎麦屋に入ると真田広之さん(64)にバッタリお会いして。聞けば、近くであった同じオーディションを受けていたんです(笑)。僕が活動を日本に戻した後も、LAを訪れるたびに時間を割いて会ってくださる。JAC(ジャパン・アクション・クラブ)時代に映画での活躍を観ていた世代からすると、そりゃあ嬉しいですよ」 今年の『エミー賞』で主演男優賞を獲得した真田。憧れの人が活躍する時代劇に、吉田も自然と心を動かされていった。 「僕がいた’95年頃、アメリカのアジアチャンネルでは週に一回、『秀吉』や『毛利元就』といったNHK大河ドラマが英語字幕付きで放送されていました。日本にいた時は観たことがなかったけど、アメリカで観たらハマっちゃって。英語やスペイン語に囲まれていると日本食を恋しくなるのと同じで、やったことのない時代劇を観て全然やり尽くしてないことに気付いて、″これをやりたい″と思った。ちょうどそこに大河ドラマのオファーをいただき、帰国を決めたんです」 ’99年に出演した大河ドラマ『元禄繚乱』で演じたのは、岡島忠嗣というオリジナルの役で、日本で1年間は撮影に臨まなくてはならなかった。吉田は必然的にアメリカでの生活を3年で切り上げ、再び活動拠点を日本に移すことになる。その後も時代劇作品への出演は続き、吉田にとって大きな転機となった。 36歳になると、舞台という新たな分野にも挑戦した。 「正直、自分が舞台に立つ俳優だとは思っていませんでした。声を張る感じも好きではなかったし。でも、劇作家の永井愛さん(73)から、『どうしてもあなたでいきたい! 全部思い通りにやってくれて良いから』と熱心に口説かれて……」 それからは少なくとも年1本のペースで舞台に立ち続け、その数20本以上。吉田にとって舞台は主戦場の一つとなった。そうして仕事の幅を広げていくなかで、大切に持ち続けているのが″探究心″だ。 「僕はね、人生そのものが旅だと思うんです。表現者として生きるのもやはり旅。それは探究心に他ならない。熱い想いじゃないですけど、その炎がなくなったら続けたくない。お金を稼ぐためだけに仕事はやりたくないですね」 ◆事務所独立の理由 表現者としての方法論や仕事への向き合い方も変わっていく。試行錯誤を繰り返すなか、45歳になると自分の中の拭(ぬぐ)いきれない″モヤモヤ″と向き合った。 「突き詰めて考えると、『一人になったほうがいいな』でした。つまり、独立です。45歳、46歳……と齢を重ねるなかで今じゃないと思いながら、50歳の節目に″今だ!″と直感と勢いで行動しました」 ’18年、約30年間お世話になった事務所から独立。そして、立ち上げた個人事務所の名を『ドゥータ』と名付けた。僧侶が施(ほどこ)しを受ける際の頭陀(ズダ)袋を意味する梵語だ。吉田のイメージは、ズダ袋一つで旅をする自らの姿だった。 俳優業とは別にもう一つ大切にしているものがある。それが音楽だ。 「音楽は自分発の表現の場なんです。職業が何かと聞かれれば、僕にとってそれは″俳優″。でも、音楽は仕事やビジネスではなく、好きなもの。俳優を休業して渡米したことはあったけど、音楽を休んだことは一度もありません」 小さなバーでライブをしたり、サイン入りCDを手売りすることもある。好きな場所で好きな人と楽しむのが吉田流だ。 ◆妻と亡き母の存在 プライベートでは、’21年にそれまで交際していた女優・内山理名(42)と結婚。52歳で新たな人生を歩み始めた。 「コロナ離婚ってありましたよね。それまで会社勤めの旦那が常に家にいるようになって……って。僕らもずっと一緒にいましたが、逆に良いなって思ったんです。そこからは自然な成り行きでした」 ヨガインストラクターの資格を持つ内山は、吉田を健康面でもサポートする。 「自宅で呼吸法を取り入れたストレッチをするんですが、奥さんから『こうしたほうが効率がいい』とアドバイスをもらったり、一緒に実践することもあります。食事もバランスを考えてくれて、外食は減りましたね。とにかく僕の身体を気遣(きづか)ってくれて、感謝、感謝の毎日です」 実は、内山と結婚する約半年前に吉田は最愛の母を亡くしている。事務所から独立した際に「私は栄ちゃんを信じているからね」とだけ言った母は、吉田の最大の理解者でもあった。 「一緒にいる時の安心感とか、結婚のタイミングとか……もしかしたら、奥さんの中にお袋が入ったのかな? って」 静かに胸の内を吐露する吉田は脳裏で、自身を見守る大切な女性二人の姿を重ね合わせていた。 昨年、芸能活動35年を迎えた吉田は新たなステージに進もうとしている。観光大使を務める地元・秦野市への映画制作誘致などのプロデュース業だ。 もちろん、本業にも抜かりはない。10月公開の映画『BISHU~世界でいちばん優しい服~』では夢に向かう娘を想う父親役を熱演。また、11月には八ヶ岳高原音楽堂にてアコースティックライブも開催予定だ。 「人生の起承転結の″結″をどうするのか、どう終わらせるのか。その答えに出会うまで旅を続けていくつもりです」 探究心を原動力に、この先も自分らしい生き方を貫いていく。 『FRIDAY』2024年11月15日号より
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