宇野昌磨の人生を決めた「5歳での浅田真央との出会い」
フィギュアスケート選手の宇野昌磨を小学生時代から取材し続けてきたジャーナリストが、10年間にわたる歩みを描いた『宇野昌磨の軌跡 泣き虫だった小学生が世界屈指の表現者になるまで』。宇野昌磨がフィギュアスケートを始めたきっかけを、彼自身の言葉で振り返ってみよう。 【画像】宇野昌磨の人生を決めた「5歳での浅田真央との出会い」 時間を10年少し、巻き戻してみよう。 フィギュアスケートの盛んな名古屋。しかも宇野昌磨は、名古屋を代表する名伯楽、山田満知子コーチの教え子なのだから、彼の名前をスケートファンが耳にするのは早かった。 毎年開かれていた地元のアイスショー「名古屋フィギュアスケートフェスティバル」や「ザ・アイス」などには、何度も「期待のちびっこ枠」で特別出演していたし、そのたびにたくさんの人が宇野昌磨の名前を覚えた。 なんといっても、小さくて愛らしい。その彼が、華麗と言っていいほど達者な演技を見せるのだ。しかし、よく動く身体に比べて表情はちょっと硬め。そんなところも、シャイな日本の男の子らしかった。 そして名古屋の人々の噂を聞くと、どうやら彼は、大変な泣き虫らしい。 そんな「小さなアイドル」として少しずつ知られていた昌磨が、最初の大きなインプレッションを残したのは、2009年のことだ。 当時まだ、11歳の小学6年生。小学4年生から3年間、ジュニアの下のカテゴリー「ノービス」で全日本3連勝。 同世代の子どもたちの中では負けなしだった彼が、特別出場で初めて全日本ジュニア選手権に出場した時のことだ。 年の近い選手たちだけで試合をする全日本ノービス(ノービスBは小学校4年生と5年生が中心、ノービスAは小学校6年生と中学1年生が中心)とは違い、全日本ジュニアは出場者の年齢層が広い。 ジュニア年齢に達していないものの、特別に権利をもらって出場した11歳の宇野昌磨がいれば、今年がジュニア最後の年となる19歳の大学1年生もいる。 全国から選りすぐられた、日本の次の時代を担う若手たち──その中で試合をして、なんと最年少の昌磨が3位に入ってしまったのだ。 「初めての全日本ジュニア。僕は、すごく運がよかっただけなんです。ショートもフリーも悔いのない演技ができたな、と思っていたら、運よく表彰台に上がれて! 順位のことは、全然気にしていませんでした。3位になったのはうれしかったけれど、でもやっぱり大切だと思うのは、順位よりも『自分の演技』をすること。今年も、これからも『自分の演技』ができて悔いのない試合がいつでもできたらいいな、と思います」 今でも語り草になるのだが、この初めての全日本ジュニア3位の、表彰台の写真がおもしろい。優勝は中学3年生の羽生結弦、2位は高校3年生の中村健人、そして3位に小学6年生の宇野昌磨という順位なのだが、ふたりのお兄さんは身長169㎝と174㎝。 その横に、一番きれいな立ち姿でニコニコ笑っている昌磨は、この時133㎝。でこぼこな表彰台の写真は、ファンの間でもずいぶん話題になった。 「昌磨くん、ちっちゃい!」 「すごいな、まったく同じルールで戦いながら、これだけ大きな選手たちに引けを取らず、表彰台に乗るなんて!」 ノービスの男子選手が全日本ジュニアの表彰台に立つのは、彼が史上2人目。1人目の羽生結弦は中学1年生での3位だったから、小学生が全日本ジュニアのメダリストとなるのは史上初めてのことだった。 そしてこの全日本ジュニア表彰台最年少記録は、この年から10年経った現在でも、破られていない。 「一緒に表彰台に立った結弦くんは、すごく大人っぽかったです。エキシビションで話しかけてくれたけれど、話し方も大人っぽいし、あんまりたくさんはしゃべらない。氷の上でも、スケーティングやステップ、結弦くんは全部が大人っぽい、って感じがしました」 このころ筆者は、日本の男子選手と女子選手十数名に、毎年連続してインタビューする仕事をしていた。その年からは昌磨もメンバーに入ってもらおう、と、さっそく若きメダリストに話を聞きに、名古屋に飛ぶ。 この企画では年若い選手にもたくさん話を聞いてきたのだが、12歳の選手に長い時間のインタビューをするのは、浅田真央以来のことだった。 大活躍中の選手といっても、やはり相手は12歳。ちゃんと話をしてくれるだろうか? インタビューなんて、できるのだろうか? 大人に話を聞くよりも、ずっと緊張してしまう。 しかし、落ちついた目をした133㎝の昌磨は、意外なほどしっかりとした言葉で、こちらの質問にきちんと答えてくれたのだ。まずはスケートを始めた小さなころの思い出を聞いてみよう。 「僕がスケートを始めたのは……5歳くらいかな? 初めてリンクに来た時、滑って転んで、顔をぶつけて帰ったことは覚えています。でもまたすぐに遊びに来て、また顔をぶつけて帰った。その時……たぶん、痛くて泣きました(笑)。 でもまた懲りずにリンクに来た時、浅田真央ちゃんが練習に来ていて、一緒に遊んでくれたんです。 真央ちゃんに会ってからは、毎日毎日滑りに行くようになって、スケートのジュニアスクールにも入ることになりました。 大須のリンク(名古屋市中区大須の名古屋スポーツセンター)のスクールは、スピードスケートかホッケーか、フィギュアスケート。そのどれかを選んで入るんですけど、決める時に真央ちゃんが、『昌磨くんはフィギュアに来なよ!』って言ってくれたんです。 それで、僕は男だからホッケーかな、と思っていたけれど、真央ちゃんと同じのがやりたくて、フィギュアにした。 今は、フィギュアを選んで良かったな、って思ってます。ホッケーやスピードスケートも、やればきっと、絶対におもしろいと思う。でもたぶん、フィギュアスケートみたいにはできなかっただろうな」 浅田真央12歳、宇野昌磨5歳の出会い。 当時の浅田は、ちょうど昌磨と同じようにジュニアの下のノービスで全日本4年連続優勝をして、特別出場の全日本ジュニアでも4位。 「真央ちゃんが本格的に出てきたら、日本のフィギュアスケートは、すごい時代がくるぞ!」と、静かに話題になっていた時期だ。 ちょうどこのころ、名古屋で開かれた小さな子どもたちのスケート教室で、浅田真央が先生役をする姿を見たことがある。 「はい! みんなこっち見てー」 「真央についてきて!」 子どもたち相手に大はりきりの様子があまりにもおもしろく、報道陣が笑って見ていると、愛知県スケート連盟の人たちが教えてくれた。 「試合では『氷上の妖精』なんて呼ばれているけれど、ふだんの真央はリンクのガキ大将なんですよ」 ガキ大将がある日、可愛い男の子を見つけて、フィギュアスケートに誘ってしまった──そんなシーンが目に浮かぶ。