池上彰が映画で世界を解説!『関心領域』──ユダヤ人が虐殺されているときも、収容所の外では幸せな生活があった
描かれた時代背景や、舞台となる場所の特性、映画に込められたテーマや視点など、知っていると面白さも知識も倍増する、ジャーナリスト池上彰さんならではの映画の見方で映画をご紹介いただきます。(ぴあアプリ「池上彰の 映画で世界がわかる!」より転載) 【全ての画像】『関心領域』(全7枚)
美しい庭園と幸せそうな家族。その様子が淡々と描かれていくうちに、その家の向こう側に存在する壁と、煙突から立ち上る黒煙が気になってきます。気づくと、まるでホラー映画のような恐ろしさに包まれます。 映画の舞台は、第二次世界大戦中、ドイツ軍によって占領されたポーランドのアウシュビッツです。ここにはヒトラーの命令で絶滅収容所が建設されました。ユダヤ人を“効率的に”皆殺しにするための施設です。 戦後、ここの施設にユダヤ人を送り込む責任者だったアイヒマンはイスラエルによって逮捕され、死刑になりますが、裁判が始まると、本人は「命令を実行しただけ」と弁解。まるで小役人のような態度に世界は驚きます。 この裁判を傍聴したアメリカ・ニューヨークの大学教授だった哲学者ハンナ・アーレントは、アイヒマンに“悪の凡庸さ”を見出します。平凡な人間が思考停止によって悪を実行するものだと指摘したのです。 アイヒマンのことを極悪人だと思っていたユダヤ人たちは猛反発しますが、アーレントの指摘は、誰でも思考停止すれば極悪人のような犯罪に手を貸すことになるというものでした。この映画を観ると、強制収容所で働く軍人たちや、その家族たちの様子は、まさに“悪の凡庸さ”そのものです。 軍人たちは、いかにユダヤ人たちを“焼却”するかを話し合いますが、まるで工場の新設を検討しているかのような様子です。 担当者には人事異動が発令されますが、快適な暮らしを失うことを恐れて異動を撤回させようとする様子は、まさに小役人。夫の異動で快適な暮らしができなくなると恐れた妻は憤慨します。 どこにでもある日常風景のように見えますが、壁の向こうの煙突から出る黒煙は、殺害されたユダヤ人の遺体を焼く煙なのです。親子がカヌーで川遊びをしていると、上流から大量の灰が流れてきます。灰を浴びてしまった子どもの灰を落とそうと慌てる親の姿を見ると、この灰がどんなものなのか、彼らが知っていたことを映画はさりげなく描きます。 この映画は、そんな状況を丁寧に説明することはありませんが、観ているうちに気づかされるという設定になっています。観る者がそれに気づいたとき、戦慄が走ります。 去年10月、パレスチナの武装組織ハマスがイスラエルを奇襲攻撃し、ユダヤ人に多数の死者が出ると、イスラエルは徹底した空爆を含む地上作戦でハマス掃討作戦を実施。多くの民間人が犠牲になりますが、欧米各国の指導者たちは、イスラエルを非難することはありません。そこには、ユダヤ人が虐殺されていることを薄々知りながら傍観していたことへの贖罪意識があるのです。 ドイツの占領下で、ユダヤ人たちは胸に大きな「ダビデの星」のマークをつけることを強制されました。誰がユダヤ人か一目でわかるようにしたのです。 そしてユダヤ人たちは貨物列車にまるで家畜のように詰め込まれて収容所に送られ、戻ってくることはありませんでした。何かとんでもないことが起きている。気づいていた人たちは、見て見ぬふりをしていました。戦争が終わって、ナチスによって600万人ものユダヤ人が虐殺されていたことを知った人々は、贖罪意識に駆られることになったのです。それがいま、イスラエルの攻撃を容認することにつながっているのです。 ユダヤ人が虐殺されているときも、収容所の外では幸せな生活があった。なんと恐ろしいことであったことか。 『関心領域』 5月24日(金)公開 (C)Two Wolves Films Limited, Extreme Emotions BIS Limited, Soft Money LLC and Channel Four Television Corporation 2023. All Rights Reserved. ■池上 彰(いけがみ・あきら) プロフィール 1950年長野県生まれ。ジャーナリスト、名城大学教授。慶應義塾大学経済学部卒業後、NHK入局。記者やキャスターをへて、2005年に退職。以後、フリーランスのジャーナリストとして各種メディアで活躍するほか、東京工業大学などの大学教授を歴任。著書は『伝える力』『世界を変えた10冊の本』など多数。