落第危機の非行少年が無試験で京大進学――あまりに強運すぎる「有名ニュースキャスター」の人生
高校では左翼運動に深入りする
だが、古谷の「非行」は高等科になっても治らなかった。ただし今度は遊興ではなく、左翼運動である。当初組織にこそ入っていなかったが、逮捕された同級生の処分反対運動に決起したことで深入りしていく。組織の下働きや秘密機関紙発行などの活動が警察の知るところとなり、検挙され、留置場に入れられた。 退学は免れたものの事実上停学になった古谷は落第を覚悟したが、ここでもさらに救いの手が伸びた。卒業式の10日ほど前に学校から呼び出され、突如卒業を通告されたのである。 登校していないので3年次の2学期と3学期は期末試験すら受けていない。それなのに卒業できたのは、放校処分にして反対運動が起こるのも困るし、さりとて復学も困る学校当局の思惑があったのではないか、と古谷は推測する。
京大文学部に無試験で入学
こうして古谷は、再三再四にわたる成城高校の寛大な処分によっていい加減な形で高校を卒業し、定員に満たないため無試験で入学できた京都帝国大学文学部哲学科美学専攻に潜り込んだ。その回想が誇張なしの真実であれば、古谷は変則的に中学を修了し、高校の3分の1は出席せずに帝大に進学したことになる。 古谷がもし公立中学校から官立高校という進路を歩んだとすれば、まず公立中学校で落第、官立高校入試は不合格、入れても在学中に左翼運動で放校、と3度にわたって落伍することになる。古谷は、成城独特の自学自習システム、小学校や中学校からエスカレーター式に進学できる「私立」「七年制」という制度、そして個性尊重を標榜するリベラルな校風に助けられ、最後は無試験入学に助けられたのだった。
「エ※・プロ・テロの三重奏」
帝大における私立高校出身者は、かなりの程度異分子として見られていたようである。新宿のデパート嬢をナンパする「エ※ボーイ」成城、阪神間のモダンな空間でウィンクをする「近代青年」甲南ボーイは、地方官立高校から出てきた学生とは明らかに異質で、彼らの挙動は時に面白おかしく描かれた。特に成城はナンパだけでなく学生運動(プロレタリア)もさかんで、左翼生徒を憎む反動(テロ)生徒の活動も活発だった。この自由な学園の姿は、『帝国大学新聞』によって「エ※・プロ・テロと騒々しい三重奏」と評された(1931年5月4日)。 成城から京大へ進学した古谷は、大学に対する思想弾圧事件である1933年の瀧川事件に遭遇し、学園闘争の中心人物の1人となった。その古谷は、京大における成城高校同窓会が終始闘争をリードしたことを指摘する。「少くとも経済学部、文学部では成城高校は指導的な一員だつた。しかもともすれば引込み思案になる中央部の一部分に対する急進的な反対者であつた」(『成城文化史』)。そして古谷はこういう。「成城時代に暴れ廻つた経験がどんなにかこの事件に生かされたことだつたらう」(同右)。 ※本記事は、尾原宏之『「反・東大」の思想史』(新潮選書)に基づいて作成したものです。
尾原宏之(おはら・ひろゆき) 1973年、山形県生まれ。甲南大学法学部教授。早稲田大学政治経済学部卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。首都大学東京都市教養学部法学系助教などを経て現職。著書に『大正大震災 忘却された断層』、『軍事と公論 明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男 丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』、『「反・東大」の思想史』など。 デイリー新潮編集部
新潮社