林家木久扇「笑点」の54年「4月から座る人は大変だよ。あの席にはいろんな仕掛けがあるの。僕が何十年と積み上げた仕掛けがね」
卒業白書2024#13《後編》
林家木久扇師匠が本日3月31日の放送をもって「笑点」を卒業する。インタビューの後半では、笑点メンバーにいじられ続けた「木久蔵ラーメン」をはじめ、54年出演し続けた笑点の思い出を、新著『バカの遺言』(扶桑社新書)をもとに振り返った。 【画像】「笑点」名物ともなった木久蔵ラーメンの誕生秘話
田中角栄に相談した、木久蔵ラーメン
――落語家になって63年。特に落語が好きだったわけでも、落語家を目指していたわけでもなかったというのは驚きでした。 林家木久扇(以下同) いつもきっかけが、僕が決めたことじゃなくバッて変わるんですよね、場面がね。身を任せるというか、主体性がないというかね。 ――おもしろいなと思ったことに寄っていく。 そうですね。漫画家を目指したときに師事したのは清水崑だし、中国でラーメン屋をやろうと思ったときは田中角栄でしょ。大元みたいな人のとこに行っちゃうんだよ。 当時中国で何かやるには田中角栄だった。なんとか繋がろうと、半年かかったけどね。第一秘書のね、早坂茂三さんっていう人がいて、その人の子どもさんが笑点ファンで。 「あの人笑点ではいつも怒鳴られて座布団もないから、お父さん助けてやってよ」って言われたからって、早坂さんが角栄さんとの時間を作ってくれたんです。 ――座布団もないから(笑)。 でも角栄さんの口利きということで、中国で1000坪の土地を紹介されてしまった。僕が考えているのは、14坪ぐらいの立ち食いの店だったのに(笑)。 ――師匠のご経歴って、都立中野工業高等学校の食品科学科を出て乳製品の会社に勤めて、漫画家、そして落語家っていう、たぶん誰も歩んだことのないものですよね。ゆえにご苦労も多かったのでは。 辛かったのは落語家になりたての頃。前座として楽屋に入ったわけですけど、そこで時計の下に立って、師匠に時間の合図を送るという役を命じられてやってたら、評判悪くなっちゃってねー。あいつは入ったばっかりで何もしないって。 新宿末広亭の初高座では、「木久ちゃん、今日は頑張って。短くね」って言われたんですよ。「短くってどのくらいです?」「3分ぐらいでいいよ」。3分って言われても僕、「寿限無」しか知らないし、縮めるっていうことを知らないんですよ。 どうしようかなーと思って。それで、当時流行っていた森山加代子の「月影のナポリ」っていう「♪ティンタレラ ディ ルナ」で始まる歌を高座で歌ったの。歌い終わって、楽屋に戻って来たら「シーン」としちゃって。「誰が歌えって言ったんだ、落語やるんだよ馬鹿野郎」って、先輩が。でも円楽さんだけは、一人おもしろがって「木久蔵ってやつは歌うんだ(笑)」って。それから僕が高座に上がる姿見ると「今日、木久ちゃん何歌うの?」って。 ――そのときのお客さまはどんな反応だったんですか……? シーンと。 ――お客さまもシーンと(笑)。 だって歌だもん。なんだって若い子が歌ってんだろう?って。 ――度胸がすごい。 いや、わかんないから(笑)。そこんとこがバカっていえばバカなんですよ。