『春になったら』木梨憲武の思いに触れた奈緒の涙 生と死を見つめる作品の視点
死を見つめることで一瞬一瞬がかけがえのないものに
『春になったら』では、柔らかで自然な風合いの映像描写がファンタジーに通じる雰囲気を醸し出している。しかし、それは苦痛や恐怖を緩和するものではない。死という避けることのできないゴールを見すえつつも日常は淡々と過ぎて、いつか“その時”が来ることを瞳も雅彦も知っている。だからこそ目の前の一瞬がいっそう美しく感じられるし、なにげないことに幸せを見出すことができる。そういう演出だ。 雅彦は全部わかっている。いや、雅彦もわかっていなかった。瞳が一馬を好きになったこと、自分から結婚しようと言ったことは、瞳にとって一馬がかけがえのない存在だからだ。雅彦にとっての佳乃がそうだったように。瞳もわかっていなかった。父は全部知っていて、その上で自分を信じてくれているのだと。初めからそうだった。父も娘もそれぞれが死と向き合って、どうにもならない感情をどうにかして、今ここにいる。最愛の人と出会った海に連れてきたのは、愛されて生まれてきたことを伝えたかったからだ。 親から子へ、あるいは子から親へ。一方の視線だけではなく、思いが交錯することで幾重にも深くなるのが親子の絆かもしれない。本作はホームドラマの質感を備えているが、それだけで終わらない。死へのまなざしは生きることと表裏一体で、親子を取り巻く相関図は、現在進行形の関係性に波及する。瞳に片想い中の岸(深澤辰哉)は一馬に嫉妬し、結婚式の司会を頼まれた岸を美奈子(見上愛)は複雑な面持ちで見つめていた。 気づいてほしいという願望は、タイムカプセルのように時間差で発見される。第1話で出産に立ち会った瞳の脳裏に、自分が生まれた時の映像がよぎるシーンがあった。撮影したのは雅彦で、視点を共有することで瞳は親になることを追体験した。今わからないことでも、いつかわかることもある。痛みの時間が増す中でも、それだけは残してあげたいと思うのだ。
石河コウヘイ