福原冠、ニューヨークの稽古場を巡る Vol.3
範宙遊泳やさんぴんのメンバーとして活動する俳優の福原冠が、2024年11月から2カ月間、ニューヨークに滞在する。目的は、“稽古場のリサーチ”のため。表現を通じてさまざまな人と出会ってきた福原は、稽古場の新しい形を模索中だという。本連載ではそんな福原がニューヨークの稽古場で見て、聞いて、体験したことをつづる。 【画像】付箋はだいぶ増えました。(他6件) ■ improvisation(即興)のクラスに参加 こんにちは、福原冠です。現在12月6日午後3時16分、マンハッタンの東側、レキシントンアヴェニュー63丁目駅を出てすぐのところにある喫茶店で書いています。人のまばらな店内にはSWVが流れていて、自分の向かいの席、窓際で本を読んでいる男性は静かに首を振っている。 ニューヨーク滞在は後半に入りました。乗るべき電車も降りるべき駅も何度となく間違えた。クラスでは英語が聞き取れず何度も置いてけぼりになり、課題も勘違いに次ぐ勘違い。それでもこの滞在は充実しています。降りるべきでない駅で偶然カッコいい古着屋に出会ったり、クラス終わりの帰り道に同じクラスを受けていた生徒が肩を叩いてくれたり、準備してきた発表が全くの勘違いでも美しい挑戦だったと声をかけてくれたり。心が丸裸の時、優しい言葉をかけられると涙がでそうになる。 「improvisation(即興)」のクラスを受けています。ダンスも演劇もコメディーもそれぞれに即興のクラスがあり、今回の滞在ではかなり意識的に参加しています。即興を選んだのは最初はどれも消極的な理由からでした。ダンスの場合、即興のクラスは経験不問のものが多く、踊りの訓練をしてきていない自分にとっては飛び込みやすかったということがありました。演劇の場合、モノローグ(独白のクラス)やシーンスタディ(特定の場面の稽古をするクラス)はそれなりの準備が必要になってくる。どうしてもその時間が取れなさそうなのと、参加するとなると気持ちが大いに持っていかれ、この滞在がとてもストイックなものになってしまいそうな気がして気が引けてしまいました。 ■ 即興で大切なのは、“今日そこに誰が来て、何を手放すのか” そうなると残るのは即興。ダンスの場合、言葉による指示が聞き取れなくてはいけないし、演劇の場合は決められたセリフではなく、自分の中にある言葉で舞台に立つ方が勇気がいるという見方もできるけど、そこはもういっぱい冷や汗をかく覚悟で挑みました! 演劇の即興のクラスや集まった人たちでせーので劇を始めるセッションのようなものもここには沢山あるように思います。クラスを受けるまで僕は即興がなんなのか全くわかっていませんでした。咄嗟のトラブルやピンチを切り抜ける術のようなものとしか思っていませんでした。そこにユーモアがあれば尚よしなのかなと。しかしこれは全くの間違いでした。 即興的に体を動かすダンスに答えはない。クラスは大抵体の力を抜くことから始まる。肩の力を抜いて、余計なものを取り除いてシンプルになる。そうしてようやく耳を傾けられる。 ファシリテイターの声に導かれるようにして、参加者は肉体の絵筆で色を塗ったり線を引いたり詩を書いたりする。それぞれの解釈とそれぞれの時間の使い方で意味から離れ、意味から逃れ無意味になる。夢中になって手足を動かしながら次第に参加者同士のコミュニケーションが生まれ、一人一人から自分の周りの人と、やがては踊っているこの空間が全員で共有している場所だということを確認して、意識は再び個人に戻っていく。誰もいない空間に人と人が現れては繋がって、別れていく。即興のクラスはいつもドラマチックだなと思います。今日そこに誰が来て、何を手放すのか。 ニューヨークにはとても多くの即興のダンスのクラスがあるように思います。いくつもの種類のクラスがある中で、即興がこんなにも沢山あるのはなぜだろう。ある人は即興は健康のためと言っていたし、ある人は技術の応用という人もいたし、ある人はダンスを忘れるためと言っていた。 ニューヨークには演劇の即興のクラスやジャム(集まった人達で即興劇を行う会)も沢山あるように思います。クラスを受けるまで僕は即興がなんなのか全くわかっていませんでした。咄嗟のトラブルやピンチを切り抜ける術のようなものとしか思っていませんでした。そこにユーモアがあれば尚よしなのかなと。しかしこれは全くの間違いでした。 今日のところの僕の解釈は以下の通り。「即興的に瞬間をつないでいくこと。相手にギフトを渡し(つまり渡されたものは全てギフト!)、相手からの投げかけにはYES ANDで答える。面白くする必要も上手いことを言う必要もなし!」どんな状況も肯定し、どんな投げかけもポジティブに受け止め、共演者と同じ時間を紡いでいく。沈黙を恐れる必要もユーモアに苛まれる必要もなし。つまり必要なのはワードセンスでもユーモアでもなく相手を受け入れ、耳を傾けること。コメディの即興はその上でいかに笑えるかということを磨いていく。 相手が医者になれば自分は患者になるし、相手が俯きながらうろうろしていたら、自分は一緒にコンタクトレンズを探してあげる。本当は患者の体調の悪さをアピールするために俯いていたけど、彼がコンタクトレンズを探してくれるなら自分もコンタクトレンズを探していたことにする。こうして言葉にするとどこか安っぽくなってしまうけれど、小さなミラクルを積んでいくこの時間が自分はとても好きだ。 インプロのクラスでとても印象に残っているワークがある。それは「ベンチ」というワークで、椅子に腰掛けて、会話をするというもの。何もせず、ただ話す。テーマはなんでもよく、話はどこに転がっても構わない。テーマによっては、ペアの相性によっては沈黙が生まれたり、盛り上がることなく終わってしまうこともしばしば。参加者はそれをただただ見つめる。 ニューヨークには沢山のジャズクラブがあって、いくつかの箱では真夜中にセッションが行われる。こないだ行った小さなクラブは24時を過ぎるとお客さんよりミュージシャンの方が多いんじゃないかというほどだった。セッションは有名なナンバーをやるときもあれば完全な即興もある。はじめましての人たちが少しの耳打ちとアイコンタクトですかさず演奏を始め、煌めいたり蠢いたり荒れ狂ったりしながら瞬間的な夜をはじき出す。もちろん全てが凄いわけじゃない、けどいくつかの即興には目を見張った。一人一人でありながら全体。全体でありながら点在する個。緊張感があるのにどこか緩く、それでいてどこまでも自由。的確で遊び心のあるプレイを目の当たりにしながら、僕は勝手に彼らの昼間の姿を想像した。彼らは昼に学んだことを夜活かしている、だとしたら凄腕達がなんだかとても愛らしく思えた。技術は相手とつながるためにあり、約束は自由になるためにある。人生は即興だ。僕らは即興的に息をしている。 ピアニストは手ぶらでやってくる。彼らが急に踊り出さなくてよかった。自由の壁を蹴り倒した時、そこには前衛の荒野が広がっている。 ■ 福原冠 神奈川県出身。範宙遊泳所属。2015年からインタビューによって作品を立ち上げるユニット・さんぴんを始動。劇団以外でも古典劇から現代劇まで幅広く出演。近年はダンス公演にも出演している。近年の出演作に山本卓卓演出「バナナの花は食べられる」「心の声など聞こえるか」、福原充則演出「ジャズ大名」、三浦直之演出「BGM」「オムニバス・ストーリーズ・プロジェクト(カタログ版)」、永井愛演出「探り合う人たち」、杉原邦生演出「グリークス」、森新太郎演出「HAMLET -ハムレット-」、中村蓉演出「花の名前」など。