カナダ生まれ80歳女性の「戦争に翻弄された」半生 住む場所追われ京都へ、兄とは45年間会えず
モノクロの写真には、雑踏の中に疲れた表情で座り込む母親と幼子3人が写っている。1946年夏、東京・品川駅で撮影された。 【写真】1946年、品川駅で撮った一家の写真 「戦争に翻弄(ほんろう)された家族でしたよ」。写真を前に戸谷恵美(めぐみ)さん(80)がつぶやいた。当時2歳だった恵美さんは、写真の中で不安そうにうつむいている。母子ともカナダ生まれ。戦中の強制収容キャンプでの暮らしを経て、日本に渡った直後の写真だ。「ちょっと変わっていた」という家族の戦後を、京都で子ども時代を過ごした恵美さんに話してもらった。 太平洋戦争が始まった41年ごろ、カナダには日系人約2万3千人が住んでいたとされる。戦時中は大半が強制的に住む場所を追われ、戦後には約4千人が日本に送られた。 「私の人生最初の記憶は、日本に来て、おばさんからわけのわからない言葉でまくしてられたこと」。恵美さんは笑う。カナダでの記憶はないが、日本の地を初めて踏んだ時の違和感は脳裏に染みついている。品川駅での写真は、カナダでカメラマンとして働いた父・和泉忠男さんが撮った。駅をたち、父が生まれ育った和歌山県に向かった。 ■隠れて英語の本 やっとたどり着いた父のふるさとも、安住の地とはならなかった。カナダで生まれ育った母・梅さんは、日本語に不自由はないものの、しゅうとめとの関係がうまく行かなかったという。「ママはすぐ、大阪に出稼ぎに行くようになった」 和歌山では、7歳上の兄忠志さんが、恵美さんと1歳下の妹・栄見子さんの面倒をよく見てくれた。「兄ちゃんは、メリケン粉を水でこねてガムの代わりに食べさせてくれた」。そんな兄も漢字が苦手で、日本の学校に編入してから苦労した。押し入れで英語の本を読んでいて父に叱られたこともあったという。日本の地を踏んで約3年後、カナダに残った親戚を頼りに兄は単身、再び太平洋を渡った。恵美さんは「理由ははっきりとわからないけど、日本にいるのがつらかったのかな」とおもんぱかる。 ■京へ移住、両親離婚 兄以外の家族も同じ頃、京都市内に移った。両親は英語を生かして、京都などの米軍キャンプで通訳やタイピストとして働いた。恵美さんが6歳の頃、両親が離婚した。「パパが荷物をまとめて出て行って、近くで新しい所帯を持った」という。ただその後も、おなかがすくと父の家に行って、ご飯を食べさせてもらった。父の再婚相手とも仲は良かった。「変わってるでしょ」。恵美さんは笑う。