石川から強さ求め新潟の中学に相撲留学 秘めた負けん気、父と子の絆で苦難乗り越え 「大関」大の里㊤
大相撲秋場所で優勝した関脇大の里が大関昇進を確実にした。最速ペースで昇進を遂げる大器の「原点」を振り返る。 ◇ 父と子の会話には常に「相撲」があった。中村泰輝、後の大の里が石川県津幡町の相撲教室に通い始めたのは小学1年生の頃だ。相撲経験者だった父の知幸さん(48)は当時を、こう振り返る。 「『野球をやっても最初は球拾いだから、足腰を鍛えるために相撲やってみたら』と言って。連れて行ったら思いのほか結果が出て本人ものめり込んだ」 知幸さんも教室でコーチを務め、熱心に指導した。負けて怒られ、泣く大の里。たった一度だけ「試合に行きたくない」と言い出し、団体戦を欠場したことはあったが、やめはしなかった。専門誌を愛読するくらい相撲は好きだった。 小学校高学年になると、勝てない相手が出てきた。周囲の子供たちも成長期で体が大きくなってきたからだ。大の里は近くの山に行き、「勝つぞ」と叫び、強くなるため、中学から新潟県に相撲留学することを決めた。相撲どころのプライドを持つ地元・石川県内の反応は冷ややかだった。知幸さんの元には関係者から電話がかかってきた。 「あんな所に行かせて」 大の里が親元を離れ、寮生活を始めると、知幸さんは試合への送迎がなくなったこともあり、節約も兼ねて自家用車を小型に買い替えた。「軽(自動車)で応援に来られたら恥ずかしいだろうなと。息子の知り合いの目につかないように会場から遠めに止めて、そこから歩いて行ったりしてましたね」。相撲のアドバイスを送ることはなくなり、大会後に本人からかかってくる緻密(ちみつ)な「敗因分析」の電話に耳を傾け続けた。 13歳からの〝武者修行〟のかいあって、大の里は日体大3年でアマチュア横綱に輝く。その夜、大の里は大学の友人と知幸さんと連れだって食事に出掛けた。酒に酔い、友人に言った。「あの頃、俺たち親子がどんな目で見られたか。結果を残せなかったら、と家族のために頑張れた」。父と子は「つらかったな」と言い合い涙を流した。 その息子は角界入りすると、わずか9場所で大関へ。大の里を強くするのは、胸に秘めた負けん気なのだと、知幸さんは感じている。(宝田将志)