「五木ひろしさんに可愛がってもらった」「恩師・山口洋子さんからの手紙は宝物」 真木ひでとさんインタビュー
1960年代末、グループサウンズ「オックス」のボーカリストとして一世を風靡。1975年の演歌転向以降も数々のヒット曲を世に放ち、日本の音楽シーンに燦然と輝く真木ひでとさん。2月から4月にかけ前編、中編、後編を掲載した。3時間以上におよんだインタビューの中から、これまで紹介できなかった芸能界、音楽界の友人知人との交友録や秘話を紹介したい。 【写真】赤いジャケットは五木ひろしさんからのプレゼント
<strong></strong>オックスの三大事件
一番はやはり赤松愛の脱退(※詳細は前編)だけど、他にもいろんなことがありました。その一つがけんかですかね。オックスはけんかっ早いグループだと言われていて、ガリバーズと楽屋通路で大乱闘したことは週刊誌にも書かれてしまいました。でも後年、ボーカルの多勢正隆さんとはとても仲良くなったんですよ。モップスともけんかしたけど、話してみたら同じホリプロだとわかって、その後はとても仲良くなりましたね。特に鈴木ヒロミツさんとは、後年もずっと仲良くしてもらいました。 グループサウンズではシャープホークス、ゴールデン・カップスなんかもよくけんかをしそうなイメージですけど、なぜか彼らとは仲が良かったんですよね。意外でしょ(笑)。カップスとは『ガールフレンド』(1968年)の頃、よくジョイントコンサートをしましたね。ステージングも舞台袖から見ていたけど、エディ潘やマー坊(ルイズルイス加部)がアンプに寄っかかったり座ったりしてる中、デイヴ平尾だけが一生懸命歌ってるのが妙にカッコよかった。後になってマモルと話したら、ほとんどオックスのファンだから「やってらんねえなぁ」って思ってそうなってたみたい(笑)。「いくらなんでも普段は立って弾いてるよ」だって。ステージングという点ではテンプターズもカッコよかった。ショーケン(萩原健一)は背中を見てるだけでも熱を感じるんですよ。スターってなるべくしてなるもんだなと思いました。
大阪のサイン会で起こった混乱
もう一つは、これまで誰にも話してないし記事にもなってないこと。オックスは愛が脱退してレコード売り上げが落ちたと思われてるでしょ?たしかにそれも影響あると思うけど、一番の原因は田浦幸(後の夏夕介)が加入した直後の大阪でのサイン会で起こった事件なんです。当時のオックスはまだ半端じゃない人気がありました。だからメンバーも事務所も「屋上の方が安全だと思う」と言ってたんだけど、ビクター大阪営業所の担当者はそのサイン会をどうしてもデパートの店内でやると言うんです。「大丈夫ですよ。警備しますから」と。愛がやめたからそんなに来ないと軽く考えてたんじゃないかな。でもやっぱり蓋をあけてみると大混乱になってしまって、サイン会どころじゃない騒ぎに。しかも、あろうことかビクターの担当者がファンの子を蹴ったか押し倒したか、暴力をふるったんです。 オックスのリーダー(福井利男)はファンを大事にする人だったから、それはもう怒りました。僕は直接その現場を見てなかったからわからなかったけど、あのリーダーが怒るというのはよっぽどのことだと思うんです。結局、サイン会はできずに控え室に帰ってきたら、担当マネージャーが「今夜、料亭で謝罪をしなければいけなくなった」と言うんだよね。「なんで?」「ビクターの人が相当怒ってるみたいだ」「どっちもどっち、痛みわけでいいんじゃないの?」「そういうわけにいかないんだ」というやりとりがあって、結局、僕たちも料亭で土下座させられました。屈辱でしたよ。これまでこんなにビクターの売上に貢献してきたのに…と。今、考えると大阪営業所は自分たちがオックスを支えてきたという自負があったんだろうね。たしかにデビュー曲の『ガールフレンド』は初め、関西地区の売上だけでオリコン50位くらいにずっといたから。 でも本当に大変だったのはここから。一応謝罪が済んだし、メンバーチェンジ後初のシングル『ロザリオは永遠に』(1969年)を頑張るぞと思ってたら、大阪営業所がキャンペーンを一切やらなくなってしまったんです。関西ではいつもベスト5には入ってたので、このチャートが動かないときついよね。それまでみたいにオリコン10位、20位に入ることが難しくなってしまいました。でもそんな状況にも関わらず最高32位までいったのは奇跡だね。楽曲自体は筒美京平さんの自信作だったし、悔しさの残る作品です。