大の里「逃げ場がなかった」”第2の故郷”新潟時代の6年間 恩師に仲間に恵まれ完走した2・5キロの徒歩通学【大相撲連載(中)】
◇大関大の里誕生『輝くために』(中)新潟編 新潟県へ相撲留学した大の里は、糸魚川市能生(のう)中と海洋高で中高一貫スタイルで猛稽古を積んだ。6年間を振り返る時、正直な言葉で当時の胸の内を語る。だが、表情は穏やか。今の土台となった第二の故郷への愛着がにじむ。 「逃げる場所がないんですよね。自分から行ったので。逃げたら、笑いものになるだけだった」と苦笑いして「(新潟に)帰りたくなるんですよね」と続ける。出会いに恵まれたからだ。
稽古後、就寝時間が迫る中、寮までダッシュ。後ろから追い立てるのが6年間、寝食を共にした海洋高の田海哲也総監督(63)だった。大の里が「哲也さん」と呼ぶ恩師は、小6の大の里のある姿に無限の伸びしろを感じ取っていた。 「全国大会の土俵近くで座って、パンフレットにメモを取る。今まで、そんな子はいなかった。相撲好きというのが一番の素質」。半身で右差す形は弱点もあったが、矯正せずに体づくりを優先。攻めの軸になった。 今につながる出会いもあった。中高と日体大の1学年先輩で二所ノ関部屋の兄弟子の幕内白熊だ。忘れ物がちょっと多めで相撲に一途な似た者同士。同部屋になり、部員4人1部屋でなくコーチ2人との特別シフトの時期もあった。いい思い出になっている。
昨年の名古屋場所後に同時に新十両昇進。勝てば験担ぎ、負ければ験直しの夜食に連れ立って出かける。「何千、何万番と一緒に稽古してきた。心も支えてくれる存在」と頼りにしている。 能生中が、全国大会に初めて出場した際に「いとうおがわしりつ、のうせいちゅう」と市も校名も、間違ってアナウンスされた話を聞かされてきた。大の里にとって、結果を残し続ける大切さの教訓になった。 高校時代の個人タイトルは、目標だった2つに対して1つ。角界入りの誘いもある中、頭に浮かんだのは6年間、自転車が禁止され、徒歩だった片道2・5キロの通学。「楽な近道はない」。もっと強くなる。合宿で交流のあった日体大の門をたたいた。
中日スポーツ