特攻隊教官一家の自決は教え子との約束だった? 8月に遊佐准尉の慰霊祭
忠夫さんが残した遊佐准尉に関係する資料や写真も多数あったため、村山さんは「戦後70年の節目に、自決事件をもう一度しっかり見直し、考えてみたい」と本格的に調べ始めています。村山さんは「これまで伝えられてきたあいまいな点を明らかにしたい。例えば敗戦に悲観しての自決とは少し違うようです」。遊佐准尉は「特攻の花と散る日を待ちしかどときの至らで死する悲しさ(自分も特攻で散る日を待っていたがそのときが来ないまま死ぬのは悲しいことだ)」との辞世を残しています。ところが辞世は終戦の8月15日をまたず1日前の14日に詠まれています。「遊佐さんは戦争の勝敗にかかわらず、自決を覚悟したことになります」と村山さん。 そのヒントとなるのが、遊佐准尉が新入の飛行練習生に真っ先に話したという「君たちの命が終えるときは私の命も終えるときだ」との言葉だと言います。「日本軍は8月13日に組織的な特攻はやめている。遊佐さんはもう練習生たちを特攻に送り出すこともないと分かって、14日に自決の覚悟をし、辞世をしたためたのではないでしょうか」。
地域で戦争を考えるきっかけに
そして父忠夫さんの話から、遊佐准尉は鉄拳制裁や怒鳴るなどの指導とはいっさい無縁なヒューマンな教官で、技術力も抜群だったと言います。 飛行機から降りると「○番目のバルブがおかしいから調べてほしい」と不調個所をズバリ指摘するので、整備担当の忠夫さんは驚いたと言います。 「軍人というより誠実な教師として『君たちとともに私も命を終える』という教え子たちとの約束を果たしたのではないでしょうか。教え子を特攻に送り出した責任を当然のこととしてわきまえていたのですね。勇ましい殉国とは違うように思います」と村山さん。 その背景として遊佐准尉の経歴が注目されます。昭和11年、20歳で世田谷陸軍野砲兵連隊入隊以降、満州部隊へ転属、熊谷陸軍飛行学校入校、昭和15年同校上田教育隊転任と各地を経て、この間に上等兵から伍長、軍曹を経て上田で曹長、敗戦1年前の昭和19年に、いわばたたき上げのトップともいわれる准尉に昇任という苦労人。それが人間味ある教官・教師像と責任感につながったのではないかと村山さんは見ます。「高等教育を受けていない点では父忠夫と同じでしたから2人は馬が合ったようです。父は遊佐さん一家の下宿の世話までしたと聞きました」。 慰霊祭を前に村山さんは「戦後70年、戦争にまつわるさまざまなことが忘れられ、誤った理解がされることもある。客観的な事実に基づいて評価し、戦争というものを地域で考えるきっかけにしないといけません。教え子を戦場に送るな、とあらためて言わなければいけません。満蒙開拓に多くの教え子を送り出した長野県はどうなのかといったことも含めてですね」と話しています。 (高越良一/ライター)