回想おおさかの夕刊紙 新大阪新聞最後の編集局長が綴るあの頃
戦後の大阪で多数の夕刊紙が競い合いながら共存していた時代があった。一県一紙体制の常識を小気味よく覆すかのように、小さな陣容で大らかな個性を磨き合う。スタイルこそ異なるものの、大衆に楽しんで読んでもらうことを最重視する姿勢は共通していた。「夕刊紙文化」と呼べるものがあったかもしれない。夕刊紙共生の時代の最後尾を、とぼとぼと走っていた記者のひとりとして、幾ばくかの体験をつづってみたい。
仕事部屋兼寝室の天井に輝く流星ひとつ
写真は「新大阪新聞」の社旗と腕章だ。「新大阪新聞」は戦後間もない1946年(昭和21)2月4日に創刊され、95年(平成7)4月28日、休刊した。筆者は休刊を迎えたときの編集局長である。50年近い歴史を刻んだ夕刊紙の最後の編集局長になってしまった。 休刊後も新聞社は他の事業を継続し、巻き返しを図ることになった。社旗と腕章は筆者が退職する際、会社の了解を得て、自宅に持ち帰ったものだ。残念ながら新聞社はその後、解散を余儀なくされたが、この社旗と腕章だけは我が家に残った。 仕事部屋兼寝室の天井に、社旗と腕章をワンセットにして、押しピンで止めて張り付けてある。寝る前に布団に入ると、自然と社旗が目に入る。「新大阪新聞」は創刊当時「夕刊新大阪」の題字で発行されていたが、特徴的な星の社章から、業界筋では「夕刊流星号」とも呼ばれた。確かにひとり布団の中から見上げると、夜空にまばたく星に見えなくもない。 筆者だけの星空を見上げるたびに、「あのとき、もっとこないしてたら」というほろ苦い思いと、「それだからこそ、『新大阪』の遺志を引き継いで頑張らな」というカラ元気が交差する。気が付けば、休刊から20年も経ってしまった。
渡り歩いた夕刊三紙がすべて休刊
筆者が「新大阪新聞」たたき上げの記者なら、このような連載記事に手を染めることはなかっただろう。筆者は夕刊三紙で記者活動を連続展開し、生計を立てていた。 最初は「関西新聞」で、主に行政、経済、文化などを担当。次に「新大阪新聞」に移り、編集局長として休刊に立ち合う。その後は「大阪新聞」の契約記者として、ペンを執る機会を得た。 「関西新聞」は戦後、大阪府の職員が独立して創刊した。「新大阪新聞」は毎日新聞社の夕刊発行関連会社として設立され、その後、毎日新聞から離れて独自路線を突き進む。星のマークは毎日新聞系列時代の名残である。「大阪新聞」は「産経新聞」グループのルーツ的存在だった。 三紙三様。いずれも創刊の経緯などが異なり、夕刊紙とひとことではくくれないほどの多様性がある。そして、三紙とも休刊した。つまり筆者は連続してペンを執った夕刊三紙がそろって休刊の憂き目にあったわけだ。