米東・古豪の系譜 第3部/2 70年代 変動期 伝統脅かす、敵手出現 /鳥取
<第91回選抜高校野球大会 センバツ> 三塁手はスタンドの観客のヤジがよく聞こえるポジション。十分に慣れているつもりだった。米子東野球部の後援会長、井上賢明さん(67)=米子市=は1970年のセンバツに出場した。「緊張はしなかったが、すり鉢の底にいるようで、アルプススタンドの声援に驚いた」 どうしても米東に入りたくて中学浪人をした。“空白の1年”があり、入部を悩みつつ野球部の練習を見ていた時、当時の岡本利之監督に声を掛けられた。新チームになると病気の岡本さんに代わり20代の貫名和久さんが就任。井上さんの学年は一時代を築いた岡本監督の薫陶を受けた最後の世代だ。センバツのユニホームは岡本家から贈られた。岡本さんは大会直前、69年末に他界した。 センバツのベンチ入りメンバーは現チームの16人より少ない13人。練習では人員不足を逆手に取った。右打者の場合、打撃練習では中堅から左方向には野手を置かず、右へ流すことを意識付けた。誤って左に引っ張り「しまった」と球拾いに打席から駆け出すこともしばしばだった。 「守備でも攻撃でも常に一つ先、二つ先のプレーを予測して動く」と井上さん。チーム全体で先を読む姿勢を他校と違う米東の良さ、強みに挙げる。 井上さんは俊足の1番打者。出塁するとまず二盗するのが得点パターンの一つだった。センバツの初戦で1点を先制された直後の一回裏、井上さんは四球を選んだ。盗塁のサインは出なかった。完封負け。相手との力の差は感じなかったが、肩の痛みを抱えていた主戦に代わり、五回途中から登板した主将の力投に応えられなかったのには悔いが残った。 米東は戦前から欠かさず夏の全国大会の予選に出場し続ける文字通りの「伝統校」だ。しかし70年代に入ると、73、74年と2年連続でセンバツ出場した境、創部から10年もたたない75年に甲子園初出場を果たした倉吉北などが台頭。伝統校を脅かす存在が現れた。 井上さんはOBの一人として監督の人選に関わる立場にもある。民間人を招へいした際には、経営するガソリンスタンドの従業員として雇用し、生活面を支えた。「米東の監督には結果も求められる」と語る。=つづく ……………………………………………………………………………………………………… ◇米子東の甲子園成績(1970年代) <春> 年 勝敗と対戦相手 1970 0-5津久見(大分) 77 0-5県岐阜商(岐阜) =敗戦も完投した野口裕美は後にプロ野球・西武入り (敬称略)