戦時中の写真など資料を前に語る吉ケ別符利夫さん=鹿屋市上野町(南日本新聞社)
爆弾抱えて塹壕から敵に体当たり…。今考えると恐ろしい決死隊の訓練だった。空腹と疲れで当時はそうも思わなかった【証言 語り継ぐ戦争】
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