わずか53台の傑作! 今なら2500万円!! イタリアンデザインの「スカイラインスポーツ」がトリノモーターショーで初披露【今日は何の日?11月17日】
一年365日。毎日が何かの記念日である。本日は、プリンス自動車のスポーツカー「スカイラインスポーツ」がトリノモーターショーで初めて公開された日だ。イタリアの巨匠ミケロッティがデザインした流麗なスタイリングで、クーペとコンバーチブルが展示された。 TEXT:竹村 純(Jun TAKEMURA)/PHOTO:三栄・歴代スカイラインのすべて、60年代国産車のすべて ■プリンス自動車が生んだ傑作、スカイラインスポーツ公開 スカイラインスポーツの詳しい記事を見る 1960(昭和35)年11月17日、プリンス自動車(当時は、富士精密工業)の「スカイラインスポーツクーペ&コンバーチブル」が、イタリア・トリノのモーターショーで初披露された。デザインはイタリアのミケロッティ、技術は航空機技術集団が作り上げた華麗なスポーツカーである。 スカイラインを生んだプリンス自動車 スカイラインと言えば日産自動車ですが、1957年の初代「プリンス・スカイライン」はプリンス自動車(当時は、富士精密工業を名乗っていた)から発売された。1961年に富士精密工業はプリンス自動車に社名を変更し、1966年にはプリンス自動車は日産自動車に吸収合併され、この時点でプリンス自動車の名は消滅した。 プリンス自動車は、中島飛行機と立川飛行機を源流とする高度な技術集団だった。当時のプリンス自動車の開発リーダーは、ゼロ戦を設計した中川良一氏。ちなみに、後にスカイラインの開発リーダーとなる桜井眞一郎氏は、1952年にプリンス自動車に入社している。 初代スカイラインは、テールフィンを持つボリューム感のあるアメ車スタイルが特徴で、エンジンは1.5L直4 OHVでクラストップの60psを発生し、最高速度は国産乗用車最速の125km/hに達した。足回りは、フロントにダブルウィッシュボーン、リアはド・ディオンアクスルという乗り心地に配慮した仕様で、他にも多くの先進技術が採用された。 デビューしたスカイラインは、来るべき高速時代に向けて進化を続け、1960年にはスカイラインスポーツのベースとなった1.9L直4 OHVエンジンを搭載した1900シリーズも登場した。 スカイラインスポーツのデザインは、イタリアの名門ミケロッティ スカイラインを世に出したプリンス自動車は、次にスポーティで豪華なパーソナルカーのスカイラインスポーツを企画した。 自動車産業が本格的に始まった戦後の1950年代後半、自動車後進国であった日本は、技術だけでなくデザインでも大きく後れを取っており、多くの日本メーカーは欧米車、特に米国のクルマを参考にすることが多かった。初代スカイラインでもテールフィンを強調した全体のスタイリングは、アメ車を参考にしていたことは明らかである。 一方、それまでにない革新的なクルマづくりを目指したスカイラインスポーツについては、時代の先端を行く斬新なデザインを目指して、海外に発注することを決めた。発注先は、世界的にデザインで定評のあったイタリアのカロッツェリアと呼ばれたコーチビルダー(デザイン業者&ボディ製造)の中から、巨匠ジョバンニ・ミケロッティのデザインスタジオを選んだ。ミケロッティは、すでにトライアンフやBMWのデザインで世界的な名声を獲得していたデザイナーだったのだ。 ほとんどがハンドメイドで作られた高価なスカイラインスポーツ スカイラインスポーツは、初代スカイラインの1900シリーズをベースにクーペとコンバーチブルが設定され、つり目4灯ヘッドライトで極端に長いリアオーバーハングが特徴。インテリアも、ドライバー正面にエンジン回転計と速度計、中央部に4連補助メーターを装備し、シートは本革仕様という凝りようだった。 パワートレインは、当時最強の94psを発揮する1.9L直4 OHVエンジンと 4速MTの組み合わせ、駆動方式はFRで最高速度は120km/hに達した。 初披露されたトリノモーターショーの翌年1961年秋には、東京モーターショーでプロトタイプが披露され、1962年4月から発売が始まった。スカイラインスポーツは、その流麗なデザインを造形するためにボディのほとんどがイタリア職人の指導によるハンドメイドであり、価格はクーペが185万円、コンバーチブルが195万と破格の価格だった。当時の大卒初任給が1.7万円程度(現在は約23万円)だったので、単純計算では現在の価値でクーペが2503万円に相当する。ちなみに、それまで最も高価だった日産「グロリア」が115万円だった。 ・・・・・・・・・ 注目を集めたスカイラインスポーツだったが、販売台数はクーペとコンバーチブルを合わせても53台とされている。当初からプリンス自動車は、技術至上主義的な社風が強く、高い技術力はあったが、反面大衆車の開発が疎かになり、さらに高い開発コストといった開発体制の課題があり、経営状況は決して良くなかった。これが、日産に吸収合併して消えていった理由のひとつだったのだ。 毎日が何かの記念日。今日がなにかの記念日になるかもしれない。
竹村 純