あの映画監督の得意技! Vol.14 ソフィア・コッポラの繊細な映像表現。
新作『プリシラ』でエルヴィス・プレスリーの妻プリシラの激動の半生を描き、好評を博しているソフィア・コッポラ。彼女の作品はしばしば“ガーリー(=少女っぽい)”と評され、新作の紹介やレビューでもこの形容詞が頻繁に踊った。しかし、ガーリーとは雰囲気を表わすことが多く、彼女の映画をざっくり表現したに過ぎない。それでは、彼女のガーリー作品における本質とは? 本稿では、それについて考えていく。 最初に断っておきたいのだが、以後の文章での“コッポラ”は、すべてソフィア・コッポラを指す。映画に関する文献では、『ゴッドファーザー』シリーズなどで知られる巨匠にして、彼女の父フランシス・フォード・コッポラとイコールになることもあるので、念のため。 まず、基本的なことを確認していこう。コッポラが手がけた長編映画はすべて、女性の目線が大きなウェイトを占める。『SOMEWHERE』(2010年)はどちらかというと、シングルファーザーと化していく人気俳優の目線で語られてはいるが、エル・ファニングふんする、その幼い娘の存在はとてつもなく大きい。 そこまで幼くないにしてもコッポラが描く女性の多くは若い層だ。デビュー作『ヴァージン・スーサイズ』(1999年)の主人公となる5人姉妹はいずれも十代で、『ブリングリング』(2013年)の女子高校生たち、『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』(2017年)の寄宿学校の少女たちも同様だ。『マリー・アントワネット』(2006年)のヒロインや『プリシラ』の主人公にしても、物語のはじまりではティーンエイジャーだった。“ガーリー”な物語は、率直に言えばガールの物語である。 それらの作品を説得力のあるものにしているのは映像の繊細さ。とりわけ、表情のとらえ方は絶妙というほかない。喜怒哀楽の表われはもちろん、視線の移動や唇の動き、髪の毛の揺れさえ、セリフ以上に雄弁に何かを物語る。東京で知り合ったハリウッド俳優と、米国人の若妻の日本滞在記をつづる代表作『ロスト・イン・トランスレーション』(2003年)も同様で、ホテルでひとりぼっちのキャラクターの表情は、けだるくベッドに寝そべる姿も相まって、孤独や飢餓感がリアルに表現されていた。 男性社会と女性社会の間に横たわる溝という点についても、コッポラ作品はじつに興味深い。『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』では、女子寄宿学校で暮らす女性たちと、彼女らに命を救われた負傷兵の関係の変化が描かれているが、それは男権優位の現代の風刺でもある。スーパースターの妻となったことで従順を強いられる女性を描いた『プリシラ』も同様だ。 とはいえ、コッポラが風刺するのはあくまで男性優位社会であり、男性そのものではない。これらの作品にしても、男は状況や立場によって動いているだけで、女性もそれに反応しているだけ。そういう意味ではこのキャラクターたちは動物的と言えるだろう。『オン・ザ・ロック』(2020年)も同様で、夫の不倫疑惑が膨れ上がってしまった人妻の行動をユーモラスに描いている。人はときに感情の膨張を抑えきれない。男だって、女だって愚かになりうる。もちろん、素敵にもなりうるのだ。 振り返ると、コッポラ作品はじつにナチュラルだ。問題を声高に叫ばず、理想を描くにしても押し付けず、キャラクターの感情にカメラが寄り添う。それらはフォトジェニックな映像表現や音楽リアルな質感を得る。フランスの人気ロックバンド、フェニックスのフロントマンで、彼女の私生活のパートナーでもあるトーマス・マーズの音楽協力も見逃すべきではないだろう。“ガーリー”と呼ばれる作風の下には、さまざまな映画的魅力の層が積み重ねられているのだ。
文=相馬学 text:Manabu Souma