認知症の人が「死ぬ前、普通に話し出す」一体なぜ なかったことにされていた終末期明晰の謎に迫る
知的能力を永久に失ったと思われていた患者の意識の清澄さや記憶力、思考力などが思いがけず回復することを「終末期明晰」と呼びます。なぜ、この現象は起きるのでしょうか? 本稿はアレクサンダー・バティアーニ著、三輪美矢子訳『死の前、「意識がはっきりする時間」の謎にせまる』を一部抜粋・再構成したものです。 【漫画】日本の親が言う「人に迷惑をかけないで」の大弊害 ■常識の裏側にあるもの 今日、ある人が死の床についている。呼吸がしだいに遅くなり、脈が弱まり、心臓の拍動が不規則になる。そして、ややあって最後の息をする。この人に明日という日はない。来週も、来月もない。命がその幕を降ろしたのだ。そうして世界がひとつ、永遠に閉じられる。
だがこの人は、あるいはこの人の世界は、永遠に消えたのだろうか? すべては失われて、二度と取り戻せないのだろうか? それで本当に「終わり」なのか? わたしはこうした問いを、そのほかの多くの問いとともに論じていこうと思う。 これから語るのは、人の意識や思考、認知症、死と死にゆくことといった、現在のわたしの研究テーマにまつわる物語である。また、先の問いに関連する、驚くべき現象を目撃した人々の証言や個人的な物語も紹介する。彼らの多くは、わたしが関心を抱いている、とある終末期の現象がメディアで報じられたのを機にわたしに連絡してきた。そして、いまや鬼籍に入って久しい肉親や友人についての話をしてくれた。その死に様がとても感動的で美しかったことを、しかし、科学的にはどうにも説明がつかないのだということを。
実際、それは説明がつかない。なぜなら、そうした人々の多くは、亡くなる前に心身の機能がひどく弱っていたからだ。大半は認知症か、認知症と同等の重い神経障害を患っており、そのため意識が混乱して、それ以前の人生については細かいことをほとんど忘れていた。自分の名前を思い出せない者もいた。進行性の脳の病気により、自分の私的な世界を、そしておそらくは自分がだれであるかという意識さえも、死のはるか前に失っていたのだ。そんな病気を抱えた、精神や知性の働きが何年も弱っていた患者についての話が、「感動的」で「心安らぐ」ものだとは、普通は考えにくいかもしれない。