元関脇・貴闘力「こうなったら木綿のまわしで土俵に上がってやる!」十両昇進なのに残金10万円!化粧まわし代300万円の調達方法を明かす
元関脇・貴闘力。大関・貴ノ花に憧れて、15歳で藤島部屋(当時、のち二子山部屋)に入門。1983年3月場所、初土俵。90年の新入幕は、曙、若花田(のち若乃花)と同時昇進だった。180センチ、150キロの小柄な体ながら、ファイト溢れる相撲で、殊勲賞3回、敢闘賞10回、技能賞1回を受賞、2000年3月場所では、平幕優勝を果たした。02年9月場所で引退後は、年寄・大嶽を襲名し、後進の指導にあたっていたが、10年7月、相撲協会を去る。10年10月にオープンさせた東京・江東区の「焼肉ドラゴ」で、その波乱の人生を語ってもらった。【第3回/全5回】 ■【画像】貴闘力の化粧まわし姿(2002)十両土俵入り 1人の少年が大相撲界に入門し、最初に目標とするのが、十両という地位だ。 十両以上の関取になれば、付け人が付き、本場所では化粧まわしの着用と、絹製の締め込みを締められる。一番大きいのは、これまでの「力士養成員」から「資格者」になり、毎月、相撲協会から給料がもらえる身分になる。つまり、「一人前」と言える地位なのだ。 ところが、化粧まわしや締め込み、紋付袴などは、協会から支給されるわけではなく、部屋の後援会で作ってもらうか、自分の身内などで用意しなければならない。その額は、300~400万円はかかると言われている。 部屋によって、システムは違うのだが、貴闘力が所属していた藤島部屋(のち二子山部屋)では、自分で資金を集めて、準備しなければならなかった。 「それまで(幕下以下)は、部屋の門限が厳しいし、応援してくれる人は多少いたけれど、外でつながりを持てるような時間がない。だから、十両昇進が決まって、師匠から“すぐに後援会を作って、化粧まわしを作る準備をしろ!”と言われて、途方に暮れちゃったんだよね。それで、中学までいた福岡の知り合いなんかを頼って、なんとか300万円ほどのお金を作ったんだけど……」
集めた300万円を知人に預けたら…
ところが、悪いことに、集めた300万円を知人に預けていたところ、いつの間にかなくなってしまっていたのだ。 「くそーっ! こうなったら、化粧まわしをつけないで、(幕下以下が着ける)木綿のまわしで土俵に上がってやる!」 貴闘力はそこまで思いつめた。残っている金は10万円。その金を持って、大井競馬場で一発勝負に出たところ、10万円が160万円に。次のレースでその160万円が400万円に化けたのだから、人生はわからない。 「ギャンブルがいいか悪いかは別として、この時はギャンブルに救われました。その400万円で、化粧まわしや締め込みを買うことができたんだからね」 89年夏場所、新十両の貴闘力は、「博多山笠」のみこしがデザインされた化粧まわしを着けて、十両土俵入りに臨んだ。付け人には、当時幕下だった16歳の貴花田が付いた。 「まさに、人生が変わった時だったと思いますね。この場所は6勝(9敗)しか挙げられなくて、翌場所、幕下に陥落したけれど、幕下で全勝優勝して、9月の秋場所で十両に復帰。そこから、34歳まで関取でいられるとは、この時は想像もできないことだったなぁ」 ちなみに、付け人を務めていた貴花田は、11月の九州場所、17歳で十両に昇進。翌年3月の春場所では、兄の若花田も十両に昇進し、世の中は一気に、「若貴ブーム」に湧き上がった。 若貴、兄弟子の安芸ノ島(当時)、貴ノ濱(のち、豊ノ海)、そして貴闘力の藤島部屋の関取衆の朝稽古は、鬼気迫るものがあった。 「稽古場だとしても、負けたくない! そういう緊張感が毎日続いたので、オレや貴ノ濱関のように大して素質のない力士でも、幕内で活躍できたんだと思う。師匠の指導は相変わらず厳しかったし、部屋のみんながライバルですよ」