『サーキットの狼』50周年 スーパーカーブームを振り返る
日本にスーパーカーブームが巻き起こる
自動車マンガの金字塔と評しても決して大げさではない、池沢早人師(連載時は池沢さとし)先生の『サーキットの狼』。その連載が1974年12月10日に発売された『週刊少年ジャンプ』の1975年1月6日号で開始されて以来、今年で50周年。この作品をリアルタイムで読んだ人は多いだろうし、今なお何かしらの影響を受けているカーガイも少なくないはずだ。 【写真】日本にスーパーカーブームを巻き起こしたマンガ『サーキットの狼』に関連する写真をもっと詳しく(13枚) ご承知のとおり『サーキットの狼』は、一匹オオカミ的な走り屋にすぎなかった主人公・風吹裕矢が、当初はライバルたちと公道で激闘を繰り広げ、物語が進むにつれて舞台をサーキットへ移し、最終的には世界最高峰の自動車レース、F1に挑むという物語。 『サーキットの狼』というタイトルが示すとおり、池沢先生は当初から「風吹裕矢がサーキットで戦う物語」を想定していた。風吹裕矢のモチーフとなったのは、1974年6月の富士スピードウェイでレース中に亡くなったレーシングドライバー、風戸 裕だ。「風戸 裕選手がもしもあのままF1に進み、夢を実現させていたら……という世界線を、ぜひ漫画で描きたいと思ったんです」と、池沢先生は過去に筆者の取材に答えている。だからこそ、主人公の名前は風吹裕矢になった。 だが、後に世界を変えることになった『サーキットの狼』は、早々に連載打ち切りとなっていた可能性もあった。連載開始後、読者アンケートでは7~8位につけていたのだが、決して「圧倒的な人気」というほどではなかった。そのため、編集部内の都合により「打ち切りの予定」が池沢先生に告げられていたのだ。 しかし、その直後の読者アンケートで『サーキットの狼』はぶっちぎりの1位となり、打ち切りの話は撤回された。読者アンケートで初めて1位となった回の題材は、後の『サーキットの狼』の人気を決定づけ、日本のスーパーカーブームの方向性も決定づけた「公道グランプリ」だった。
リアルをベースとするフィクション
公道グランプリ編から『サーキットの狼』が圧倒的な人気を得ていくのに連動して、1970年代後半の日本では一大スーパーカーブームが巻き起こった。 劇中に登場した「ロータス・ヨーロッパ」や「ポルシェ930(911)ターボ」、「ランボルギーニ・カウンタック」、「フェラーリ512BB」などの模型やミニチュアカーが売れまくり、小学生たちは至るところでそれらの形状を模した消しゴムをボールペンではじき飛ばした。そしてテレビでは『対決! スーパーカークイズ』なる番組の放映が東京12チャンネル(現テレビ東京)で始まった。日本各地では「スーパーカーショー」と題したスーパーカーの展示イベントも開催され、ちびっこたちや大人たちがカメラを持って集結した。 マンガ『サーキットの狼』が、そんなにもアツいブームのきっかけとなった大きな理由は、実車が登場するなどの同作が本質的に備えていたリアリズムにあったはずだ。 もちろん当然ながら劇中でのエピソードの多くは少年少女向けにデフォルメされた、荒唐無稽なものであった。例えば交通機動隊員である沖田のパトカーに追跡された飛鳥ミノルの「ランボルギーニ・ミウラ」が、時速230kmから直角コーナリングを行うというのも、現実の世界ではあり得ない話である。 だが作品の根本部分に隠れていたものは、徹頭徹尾“リアル”だったのだ。物語自体が池沢先生の「スポーツカーとモータースポーツへの熱い思いとリアルな経験」から出発したものであり、多くの登場人物は、その当時池沢先生自身がスポーツカーを通じて懇意にしていた実在の人物をモチーフにしている。ちなみに“潮来のオックス”は、茨城・潮来で大型ネオンサインなどの企画設計施工業を営んでいる関根英輔氏がモデルだ。 そのような「あくまでもリアルをベースとするフィクション」だったからこそ、『サーキットの狼』は、同時代を生きる人々の心をつかんだのだ。