谷崎潤一郎はなぜ「女手の日本文学者」なのか...「漢字」と「ひらがな」が紡ぎ出す、日本語の表現世界
<「ひらがな語=女手」に魅せられた谷崎潤一郎だが、「男手」の漏れを隠すことはできなかった...。書家・石川九楊が谷崎の書から読み解く、文学の世界>
書家・石川九楊が錚々たる文士たちの書の筆蹟の尋常ならざる謎のような筆蝕(書きぶり)を敢えて「悪」と表現し、読み解いた『悪筆論──一枚の書は何を語るか-書体と文体』(芸術新聞社)より「両性具有の──谷崎潤一郎『春琴抄』」を一部抜粋。 【写真】谷崎潤一郎の書「細雪」 ■日本語とともに 日本語は漢字語=男手とひらがな語=女手の混合言語であり、男と女の区別が不断に避けられない特異な言語である。 もっとも欧州の言語に男性詞と女性詞の区別、また漢字語にも女偏の多数の女性詞があるように、人間にとって、最初の、もっとも区別しやすく、根源的な差異の認識は、男か女かであったようだ。 ヒトとして同じであるはずなのに異なっていて、その違いを越えて人間として一体化しようとする文化的営為こそが、人類史であると言っていいかもしれない。 人間としての同一性と、男、女としての異質性──その矛盾を孕みつつ、そこに大いなる劇(ドラマ)を生産しつつ、人類史はつくられてきた。 日本語は、男=漢字語と女=ひらなが語の二重の言語の混合体であって音と訓──すなわち男と女が併列し、男詩(うた)=漢詩と女詩(うた)=和歌(さらには俳句)という二つの詩型、また男文=漢文と女文=和文という二つの文型を有する。 後者は、自然の性愛たる「四季」と、人間の四季たる「性愛」の表現を繊細かつ厖大に蓄積してきた。 西欧の「声」の単線言語学に洗脳され、まったくもって不毛な「国字国語論争」に明け暮れた近代の文学、言語学者とは異なり、実践的に日本語の文章を創造する谷崎は、漢字語とひらがな語の表現世界の違いの厄介さに耐え、これをふりさばいて創作しつづけた。 自ら告白するように、谷崎の主題はいきおいひらがな語=女語の世界に誘われていく。その中から『春琴抄』も『卍』も生まれた。『文章読本』では執拗に文字(漢字とひらがな)について突き詰めた。 谷崎の女と男の性をテーマとする物語は、ひらがな語=女手と漢字語=男手の混合、交雑する日本語の構造自体が強(し)いた物語が、女手寄りに具現した姿と言っていい。 その意味において谷崎は傑出した「女手の日本文学者」であった。だが、その日本語は西欧語に開かれることなく、自閉状態にとどまった。 谷崎文学は、男手(男)と女手(女)の世界つまりは漢字かな交じり文に迷い込んだ挙句につくり上げられた世界である。 それゆえ、必然的に『源氏物語』の現代語訳に取り組んだ。だが、男手の漏れ来る谷崎の書の姿を見るかぎり、平安上代様の女手を思慕する味の筆画が連続する書を残した与謝野晶子訳のほうが、『源氏物語』の世界の真に近いだろうと想像されるのである。
石川九楊(書家)