昼夜の別なく救急の呼び出しが…東大出身・エリート脳外科医が経験した「仕事」「家庭」の過酷すぎる”二足の草鞋”
定年前の50代で「アルツハイマー病」にかかった東大教授・若井晋(元脳外科医)。過酷な運命に見舞われ苦悩する彼に寄り添いつつ共に人生を歩んだのが、晋の妻であり『東大教授、若年性アルツハイマーになる』の著者・若井克子だった。 【漫画】刑務官が明かす…死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由 2人はどのように出会い、結ばれ、生活を築いてきたのか。晋が認知症を発症する以前に夫婦が歩んできた波乱万丈の「旅路」を、著書から抜粋してお届けする。 『東大教授、若年性アルツハイマーになる』連載第47回 『「罪滅ぼしに来たのですね」…台湾に派遣された日本人医師が目の当たりにした「あの戦争の傷跡」』より続く
相変わらずの激務
当初「2年」という話だった台湾生活は、結局1年で終わる。帰国した私たちは栃木県壬生町に住まいを移し、義母も呼びよせて7人生活を再開。 晋の職場は獨協医科大学に移ったが、ここでもあいかわらず激務が続いた。手術件数も増え、昼夜の別なく救急の呼び出しが入る。 そんなありさまだったが、家族で出かけることはもちろんあった。だが、スケジュールを空けるために直前まで仕事を詰め込んでいる。私と子どもたちはあらかじめ準備万端ととのえて、家で待機だ。そこへ彼が帰ってくるなり、 「行くぞ!」 と号令がかかって、すぐ出発。彼は車の運転が好きなので、一家そろってマイカーであちこち旅行した。テントを積んで北海道に出かけたこともある。私の故郷である四国の海にも、毎年、車で出かけた。ディズニーランドにも行った。 高速道路をすっ飛ばし、目的地に着いたら、晋も子どもたちも一緒になって大はしゃぎ。そして遊ぶだけ遊ぶと、あとは疲れ切って寝てしまう。私には、仕事で限界まで張り詰めたものを一気に爆発させているように見えた。晋の性格は、根が単純で猪突猛進型だ。こうと決めたら、ひたすら前進あるのみ。
ちょっと行ってくる
あるとき、まだ小学生だった長女が「宿題を教えてほしい」と書斎に持っていくと、何か納得できないことがあったのか、朝まで頭をひねっていた。しかしそんな時間も、ひとたびポケットベルが鳴れば終わり。どこにいても病院に引き返さねばならない。 「ちょっと行ってくる」 これが、当時の彼の決まり文句だった。こんな調子で1年半も生活すれば疲れるのは当然かもしれない。 少し生活を変えたい――そう思ったのだろうか、晋はここで、以前から人に勧められていたアメリカ国立衛生研究所(NIH)行きを受けることに決めた。こうして私たち一家は、またもや義母を前橋に残して海外へ。1983年のことである。 『医師の夫と渡米した日本人妻の“衝撃体験”! 私には意味不明な言葉を長女がスラスラと…』へ続く
若井 克子