映画『ブルーピリオド』原作&アニメとの違いは? 実写だからこその“鮎川龍二”に
原作とははっきりと違う形で描かれた鮎川龍二(高橋文哉)の独白
原作では鮎川の複雑な心理状態を描くことを重視している。父親との確執、祖母への思いと共に、男性の魅力を知りながらも、好きな女性がいることを告白する。これは鮎川が相手の性別だけで恋愛対象を決定するわけではないという、複雑な人間心理を描いている。つまりセルフヌードを描くことで心理的に裸になったのは鮎川であり、それを通して八虎は「自分の裸とは何か」ということを考えた結果、2次試験の裸婦画へと繋がっていく。 一方で実写映画は鮎川の独白が大きく変わっている。ジェンダーによる恋愛対象への悩みなどのセリフはなくなり、創作に向き合う自分の苦しみをより直接的に語るようになっている。つまり、このシーンで描く対象を鮎川から八虎へと変更したことを示している。その結果、鮎川はジェンダーの複雑さをなくしたかのように見える。 では、実写映画は鮎川の描き方が軽くなったのか。その答えはNoだ。今作ではほんの少しの描写で映像的にキャラクターの心情が表現されているが、海のシーンの鮎川の背中に注目すると、腫れ上がったような違和感があった。わずか1秒にも満たず、暗いシーンであるので判別は難しいが、原作で語られた鮎川の家庭環境、そして自分の子供に「龍二」と名付けた可能性のある父親のことを統合すると、実写映画の鮎川の家庭環境が窺える。実写映画はジェンダーに対する悩みを直接セリフで吐露するのではなく、鮎川の背中を見せることによって、複雑な内面に対して家庭環境がどのようなものであり、ひいては社会がどのような視線を向け、それに鮎川がどれだけ傷ついてきているのかを視覚的に表現していたのではないか。 ここまで漫画・TVアニメと実写映画の違いについて述べてきたが、その根幹は共通している。『ブルーピリオド』にて描かれてきたのは「創作の楽しさ・苦しさ」であり、創作物によって救われる者、創作することでしか自分の存在を伝えることができない者がいるという、創作者にとっての真実だ。漫画では、東京藝術大学出身である山口つばさの実体験や感覚も交えた物語が描かれている。そして映画はその物語を基にしながらも、萩原健太郎監督をはじめとした映画スタッフの言葉が聞き取れるような作品になっている。 筆者を含め、観客は完成した作品を観て評価を決める。しかしその過程では様々な葛藤があり、心情の変化がある。特に団体作業である映画において、後から修正したいと気がついても再びスタッフ・キャストを再集結させることが難しく、修正ができない事情もあるだろう。制作側でも答えが見出せずに発表する作品もあったり、あるいは観客や批評家の言葉によって創作者自身がその表現の意味に気がつくということも、珍しい話ではない。その「創作の楽しさ・苦しさ」は漫画・アニメ・実写でも共通している。 実写映画は映像・音楽表現とともに、実写の文脈に合うように作り上げられていた。それらの違いはあくまでも表現媒体の違いであり、優劣を決めるものではない。『ブリーピリオド』は媒体ごとの特性と強み、そして文脈の違いを味わうのに最適な作品に仕上がっているために、比較することで見えてくるものが多い。作品の良し悪しだけではなく、ぜひ脚色の楽しみ方を見出してほしい。
井中カエル