「ジュリーと秀樹は凄かった」…追悼・八代亜紀さんが本誌に語っていた「あの大物歌手たち」との思い出
1月9日、「演歌の女王」八代亜紀さんが、昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のために亡くなっていたことがわかった。 【妖艶】オーラがすごい……ドレス姿で情念を歌う40年前の八代亜紀さん 八代さんは昨年8月に体調不良を訴え、膠原病と診断された。9月には治療に専念するため、年内の活動を休止することを発表。そのときには《少しの間、大好きな歌と絵から離れなきゃいけないのは寂しいけれど、必ず元気になって戻ってきますので待っててね。また皆さまとお会いできる日を楽しみに頑張ります!》とコメントしていた。 八代さんは’50年に熊本県八代市に生まれた。中学校卒業後、地元のバス会社に就職したが、15歳のときに歌手になるために父親の反対を振り切って上京。銀座のクラブなどで下積みを重ねた後、同じクラブで歌っていた五木ひろしさんの紹介で’71年にデビューする。 そして’73年の『なみだ恋』が120万枚の大ヒットとなり、人気歌手に。『舟唄』(’79年)、『雨の慕情』(’80年)など、八代さん独特のハスキーボイスで切々と歌い上げる情念の世界は、今に歌い継がれる名曲となった。 本誌は’20年6月5日号で歌手の西城秀樹さん(享年63)の三回忌にあたって、八代さんに話を聞いている。芸能界の歴史に名を残すような大歌手でありながら、自分のことを「八代さん」と呼び、少女のようなおっとりした口調で質問に答えてくれたことが印象的だった。八代さんは’79年に西城さんが『ヤングマン』、八代さんが『舟唄』で互いに激しく賞レースを争っていた頃の思い出を次のように語っていた。 〈あの頃は毎日会っていましたよ。月火水木金、毎日のように生放送がありましたから、本当に毎日。当時のスターは本当にプライベートは外に出ちゃいけないっていう時代でした。ドライブとかをしていた人もいましたけど、昔はタレント同士が外で会ったりすることはタブーで、ほとんど電話でああでもないこうでもないと話すことだけが楽しみでした。 いつも同じような顔ぶれで、秀樹も一緒でした。現場で誰が大賞を取るか盛り上がったあとに、家に帰ってからまた電話で話したりしていましたね。『今日は疲れたね』とか、『明日もがんばろうね』というような本当に他愛もないおしゃべりです。彼はすごく真面目な人で『家の中でもギターの練習をしているんだ』なんて言っていましたね。 でも電話で話すぐらいしかできないんですよね。今のアイドルみたいにみんなで飲みに行こうなんてことはできませんでしたから。今の人たちはフランクでいいよね。 秀樹のような若い男の子だって、恋人と一緒に外を歩くなんて事務所も音楽界もそれを許さない時代でした。秀樹みたいなアイドルではない八代さんだってそうでしたから。その頃の秀樹にとって八代さんは、本音を打ち明けられる相手の一人だったと思いますよ〉 その当時、西城さんと並んで男性アイドルの頂点にあったジュリーこと沢田研二さん(75)についても話がおよんだ。 〈一緒にやっていてもジュリーと秀樹の二人はパフォーマンスが凄かった。カッコよかった。当時のジュリーは新曲が出るたびに『えーッ、こんなことするの?』っていうようなカッコいいパフォーマンスをやっていましたからね。もしかしたら、秀樹もジュリーのパフォーマンスを意識していた部分はあったかもしれないね。ステージで美しく見せることってスターには不可欠なんです。そういうところは2人とも凄かったですよ〉 だが、そう話す八代さんが見せるステージで歌う姿の迫力、そして美しさもまた、観た人々の記憶に残るものであったことは間違いないだろう。ご冥福をお祈りします。
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