映画『オッペンハイマー』の「被爆地描写」批判が「的外れ」だと言えるワケ
「問題作」だったのか
編注:本稿は映画『オッペンハイマー』の具体的な内容に触れる部分がございます。閲覧の際はご注意ください。 【写真】インバウン丼”以外も残念…外国人観光客に合わせすぎた「豊洲の悲しい現実」 「原爆の父」と呼ばれた理論物理学者の伝記映画である『オッペンハイマー』がヒットしています。 第96回米アカデミー賞で作品賞、監督賞など最多7部門を受賞し、テレビなどでも大きく取り上げられたこともありますが、日本では被爆国という配慮から映画会社が公開を延期したことも手伝い、良くも悪くも"問題作"として期待感が高まったことも影響したのではないでしょうか。 すでに様々なメディアから論評が出ています。主だった批判としては、「原爆を作った者の苦悩が描かれている一方で、被爆地の惨状が伝えられていない」ことです。確かに、本編を見る限り『はだしのゲン』など日本のさまざまな作品が描いてきた、凄惨な被爆の実態は登場しません。主人公のJ・ロバート・オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)自身が体験する悪夢的なイメージ、そして被爆地の惨状が投影されたスクリーンから目を背けるオッペンハイマーの姿がインサートされた程度です。 けれども、以下に述べる理由から「原爆を作った者の苦悩が描かれている一方で、被爆地の惨状が描かれていない」という類の批判は的外れであることを説明します。 まず、本作は伝記映画です。監督のクリストファー・ノーランが「自分の仕事がもたらす"負"の結果も承知の上で、それでも、矛盾した現実に直面し、あのような道を進まなければならなかったという、彼のジレンマに観客を巻き込もうとしました」(*1)とその意図を話している通り、「彼が何を考え、何を見、どう受け止めたか」を追体験させることが目指されているのです。いわば主人公の主観です。
等身大の「壊れやすい青年」
原爆を二度も落とされた被爆国の日本人側からすれば、「原爆を開発した側の論理」ということになります。これは非常に重要です。なぜなら、これまで日本では被害者の立場から反核・反戦が説かれることが大半で、自国の加害も含めて触れられることは少ないという偏りがあったからです。視点のバランスを考えれば、加害者の側の論理を知ったほうが良いに決まっています。 もう一つは、若い世代への波及効果です。これもノーランがインタビューで語っていますが、そもそも若い世代の原爆に対する関心が低い現状があります(*2)。この点、伝記映画は主人公に対する共感を中心に物語をけん引することができるので、工夫次第で幅広い層を取り込むことが可能になります。筆者は、ノーランが創造したオッペンハイマー像は、マーベルコミックスでおなじみの「苦悩するヒーロー」像に近いものを感じました。 冒頭の「毒リンゴ」のエピソードが象徴的ですが、原爆計画を推進するマッドサイエンティスト的な人間像とは異なる、等身大の「壊れやすい青年」オッペンハイマーが描かれます。以降も、随所で「新兵器」の完成にまい進する超人的な活躍ぶりと、罪悪感や葛藤に揺れ続ける人間オッペンハイマーの二面性が徹底して表現されます。そのため、レッテル貼りや、特定の人物に原因を帰属させる単純化を免れています。 長崎県被爆者手帳友の会・朝長万左男会長は、「原爆被爆者の映像が取り入れられていないことはこの映画の弱点かと思いましたが、実はですねオッペンハイマーのセリフの中に何十カ所も被爆の実相にショックを受けたことが込められていました。あれで僕は十分だったと思うんですよね」(*3)と述べましたが、それは被害者とは別種の苦悩がリアルに感じられるよう演出されていからにほかなりません。