最後のセーフティーネット【介護の「今」】
「今までは何とかなっていた。でも、今度こそは駄目かもしれない」 閉め切ったアパートの一室で60代後半の男性は極度の空腹を抱えていた。家賃を滞納してから久しい。蓄えは完全に底を突いた。年金もなく、金が入る予定はない。頼る人もいない。
◇古い記憶
こんなにひもじいのは、あの頃以来だと男性は思い出す。大学受験に失敗し、都会で浪人暮らしを始めた半世紀ほど前の古い記憶だ。 仕送りをパチンコですってしまい、親からの現金書留が届くまでの数日間、一文無しで暮らさなければならなかったのだ。 水だけで何とかなるさと強がってみたけれど、1日目で頭の中は飢餓感に支配された。 「腹が減った、何か食べたい」 すべてにそれが優先した。部屋の中にある食べ物といえば…。19歳の若者はお茶っ葉を口に入れた。でも、空腹が解消できるわけはない。そんな時、オンボロアパートのドアがノックされた。郷里からの小包だった。中身はリンゴ。「あの時のリンゴの味は一生忘れられない」とうつらうつらしていると、ドアをノックする音が聞こえる。 男性は、むっくり起き上がりドアを開けた。
◇上等な味
ドアの外には女性が2人立っていた。民生委員と地域包括支援センターの職員だった。「体を壊しているんじゃないかと心配だから様子を見てきてほしい」と通報があったのだという。「大家だな」と男性は思ったが、2人の優しそうな物腰に「実は腹が減って」と率直に申し出た。 地域包括支援センターの職員は社会福祉士だった。「福祉制度に明るいので、一緒に来てもらった」と民生委員は言った。 社会福祉士は30代だろうか、バッグにごそごそと手を突っ込み、何かを取り出した。 「あの~、よかったら、これ食べますか?」 板チョコだった。 「時々、甘い物が無性に食べたくなるので、持ち歩いているんです」 男性と同じような年頃の民生委員に目をやると、大きくうなずいている。男性は「ありがとね」と板チョコを素直に口にした。50年前のリンゴと同じように、飛び切り上等な味がした。