本格的に野球を始めたのは中学から 下窪陽介はいかにして鹿児島県初の甲子園優勝投手となったのか?
下窪陽介インタビュー(前編) 開会式では、岡本真夜の『TOMORROW』が入場行進曲として銀傘に響き渡っていた。前年に発災した阪神・淡路大震災から、誰もが明るい「明日」が来ることを信じ、復興へと歩みを進めていた1996年。そんな時代背景のなかで行なわれたセンバツの主役は、間違いなく下窪陽介だった。鹿児島実業のエースとして全5試合、553球を投げ抜き、「鹿児島県初の甲子園優勝投手」へと輝いた。その称号は、28年の歳月が流れた今も、下窪ひとりだけのものだ。 【写真】2024センバツ スカウトが熱視線を送る注目の逸材20人 【本格的に野球を始めたのは中学から】 「甲子園は本当に自分を一回りも二回りも大きくしてくれた場所。マウンドからホームまですごく近く感じたし、本当にこんな場所があるのかと。野球というスポーツを面白いと思った瞬間でしたね」 じつはそれまで「野球を好きでやってきたわけじゃなかった」という。小学生時代は剣道をやっていたが「叩かれるのが嫌になって......」と、進んだ頴娃(えい)中学(鹿児島県揖宿郡、現・南九州市)では違う部活動へ進むことを決意。兄の健一郎さんが野球をやっていた影響もあり、軟式野球部に入部した。 「ルールがわからなくて、最初は苦労しました。2アウトでチェンジ、2ストライクで三振、3ボールでフォアボールだと思っていて、全部ひとつ少ないんです(笑)。自分はそういうなかで野球を始めました。守るところがなくて、ストライクは入らなかったんですけど、ピッチャーをやっていました」 だが、幼少期からやっていた剣道の動きが、投手の動きに生きた。竹刀は体全体を使って右手で打ち込むため、右手首や背筋が自然と鍛えられる。その結果、制球こそ定まらなかったが、球は抜群に速かった。 横浜高(神奈川)のエースで1998年甲子園春夏連覇を達成した松坂大輔(元西武、レッドソックスなど)も幼少期は剣道をやっていたという。年齢が2つしか違わないふたりの甲子園優勝投手が、剣道から投手力の基盤をつくり上げたというのもじつに興味深い。