かわら版が伝えた黒船の熱狂、思わず吹き出すテキトー翻訳「ふくりんひ」
黒船来航は江戸末期の日本を揺るがす大事件でした。見たこともない巨大軍艦を引き連れた異国人とクールに渡り合った幕臣の態度や江戸庶民が固唾をのんで見守った通商交渉の内容、そして江戸の庶民が大好きなちょっぴり下世話なネタまで抜け目なくしっかり伝えていました。 「これはないでしょう」と思わずツッコミを入れたくなるような「江戸時代版 日本語英語対照表」など、歴史の教科書には載っていない、思わずクスッと笑ってしまう、かわら版が伝えた黒船フィーバーを大阪学院大学准教授の森田健司さんが解説します。
庶民も固唾をのんで見守った「幕府VS黒船」
1853(嘉永6)年6月3日、浦賀沖に来航したペリー艦隊は、6日後の9日に久里浜に上陸を許される。その際、ペリーは約300人もの兵を率いて、仮設された応接所まで行進したという。フィルモア大統領からの親書を浦和奉行に渡した後、艦隊4隻は、12日に日本を離れた。10日間にわたる「黒船フィーバー」の終わりである。 しかし、付言するまでもなく、黒船はこれで「撤退」したのではなかった。翌年1月16日、ペリー艦隊は再来航する。今回は、3隻増えて7隻、うち3隻が蒸気船だった。さらに、2月6日に1隻、2月21日にまた1隻が加わり、合計9隻の大艦隊となる。しかも彼らは、一切の許可なくして、今度は江戸湾の内海まで侵入してきた。 これは全て、ペリーによる「意識的な示威行為」だった。つまり、日本を怖がらせようとしていたのである。自分たちの希望を受け入れなければ、江戸が火の海になるという、無言の脅迫だった。前年同様、ペリーは実際には戦力を行使するつもりはなかった。しかし、やりたい放題の大艦隊を目にして、庶民の中には不安を覚える者も多くいたようである。 冒頭に掲載したかわら版「海陸御固御場所附」は、そういった庶民の気持ちを投影したものと言える。「御固」は「おかため」と読んで、幕府の「警備、防衛」を意味する。つまり、黒船に対して、幕府がどのような警備体制を敷いているか、それを具体的に説明する刷り物だった。 かわら版の左側には、荒い多色刷りで、黒煙を上げる黒船と、上陸して行進する米兵たちが描かれている。なんとも勇ましく、強そうな一行である。それに対し、右側に並ぶのは、江戸湾を防備する大名の名前である。こちらも錚々たるメンバーが、警備担当地域、役職、家紋などと共に記載されている。 これを見て庶民は、「黒船は強いだろうが、これほど力のある大名が警備にあたってくれているなら、日本は安泰に違いない」と安心したことだろう。もちろん実際には、もしペリー艦隊が本気で攻撃を加えれば、幕府は一溜まりもなかった。しかし当時の庶民に、軍事力の差など知る由もなかった。 黒船関連の「御固」かわら版は、1854(嘉永7)年、極めて数多くの種類が発行されている。それだけ、庶民は「黒船 VS 幕府」に関心を持っていたということだろう。