「みんなカルティエの200万円ぐらいの時計してるのよ、って」漫画家・桜沢エリカが語る90年代と、“大きな影響を受けた人物”
なぜ本音を描く女性漫画家が次々に登場したのか
――お二人の出会いは、18歳、19歳の頃ですよね。その後、原さんや中尊寺さんとの出会いがあって。同時期にメディアで本音や性を表現する女性が出てきた背景には何があったんでしょう? 桜沢 その頃の少女漫画誌は、好きな人と両思いになるのがゴールで、その先を描く方があまりいなかったんです。その上のレディース誌になると嫁姑みたいな話が多くて。 そうじゃなくて、両思いになった人とその先どうやって展開していくかに興味があったし、それが描きたかった。読者からも需要があって、ヤング・レディース誌が各社から立ち上がって……という流れがあって。それで、ちょうど同じ時期に、本音漫画を描く同年代の女の子たちがぱらり、と出たんでしょうね。 ――91年というと、宮沢りえさんのヘアヌード写真集『Santa Fe』のインパクトは大きかったです。女性が性に主体的になってもいいんだ、という雰囲気ができたというか。 桜沢 『Santa Fe』は私も買いました。あの当時、脱ぐというと斜陽な感じだったし、一番売れている時に脱ぐ女の子はいなかったから。
「東京出身」という共通点
――今はネットで瞬時に情報が行き渡るので、情報が均質化されていますが、90年代の東京は地方より文化が進んでいた印象です。自販機本の編集部にふらっと遊びに行けるのは東京ですし、19、20歳ぐらいで大人の社会に飛び込んでいけるマインドも東京な気がします。 桜沢 それはあるかもしれませんね。私も京子ちゃんも原さんも東京出身。中尊寺は神奈川だけど。 ――桜沢さんの漫画に登場するファッションからも、「東京」を感じていました。 桜沢 漫画にはとにかくその時好きなものを描いていたけど、ヤング・レディース誌なら「これを描けば読者に分かってもらえるな」というのもありました。「主人公がシャネルを持っているマンガを初めて見ました」というお手紙を読者の方からいただいたり。
――作中に、実際にストリートで流行っているスニーカーを履いた女の子が登場するのも、新鮮でした。『シーツの隙間』とか。 桜沢 あの頃は渋カジブームで、そこにスニーカーが組み込まれていたんですよね。それこそエアマックスとか。私も当時はニューバランスの1300とか履いてた。 他にも、渋谷にいる男の子がみんなフェンディのマフラーを巻いていた時期があって、「これを描いておけば一発で今の高校生に見える」と思うものは描いていたかもしれません。 ――当時、渋谷にいる男の子がみんなフェンディのマフラーをしていることを知っていらっしゃるのが、That’s東京って感じです。 桜沢 でも、東京といっても板橋区の出身だし、私が高校生の頃は原宿の竹下通りも途中までしか行けなかったんですよ。 ――その先に怖いお店でもあったんですか? 桜沢 そういう訳じゃないんですけど、当時は果てしなく長い気がしていました。今行くと、すごく短い距離ですけどね。 ――桜沢さんはその頃からクラブに出入りされているもんだと思っていました。 桜沢 全然です。「ピテカントロプス・エレクトス」は噂しか聞いたことなくて、「ツバキハウス」も最後の方にポツッと行ったぐらい。自販機本の編集部は行けても、ピテカンには行けなかった(笑)。