「東京出身の人はどこか違うんです」上京から40年、俳優・光石研が持ち続ける“東京へのコンプレックス”
「無意識に『おうどん』って言っている」九州の方言と自分自身
――同じ福岡県でも、北九州と博多では気質が違うようですね。 博多は商業都市としてずっと栄えていますが、北九州は企業城下町。1950~70年代、八幡製鐵所(のちの新日本製鐵)が好調だったときに、北九州市の人口が福岡市よりも増えたんです。それが80年代に入ると鉄鋼業が冷えてしまって、衰退していきました。 ――勢いのあった頃の北九州で、光石さんは子供時代を過ごされた。 そうです。当時、大人たちは元気よかったですし、すごく愛着があります。 僕の生まれ育ったのは北九州市八幡西区黒崎。でも、北九州の中心はやっぱり小倉なんです。黒崎は博多でもなく、小倉でもなく、どちらからも馬鹿にされてました(笑)。 母は生まれも育ちも黒崎で、黒崎にすごくプライドを持っていました。父はソウル生まれで、戦後に博多に引き揚げてきた。でも光石家は元々は佐賀出身なんです。父は八幡製鐵への就職を機に八幡にやってきた。そんな父と母の間にも小さな確執があって、「パパはなまっとる」、佐賀の田舎者だと母は言っていたのですが、「いやいや、ママもなまってるからね」と子供心に思ってました(笑)。 ――昨年主演された二ノ宮隆太郎監督の『逃げきれた夢』は、光石さんの故郷黒崎で撮影されました。あの映画で話されていた言葉が、光石さんの言葉に近いですか? そうですね。僕の言葉は筑豊弁に九州弁が少し混じっていると思います。 ――先日、木梨憲武さんのラジオにゲスト出演されていたときにも指摘されていましたが、光石さんは、「お布団」や「お稽古」など、とても上品な言葉を使われますよね? お坊ちゃんのような言葉遣いと言いますか。 全然、お坊ちゃんではないですよ(笑)。でも、この前も妻に「あなた『おうどん』って言ってるよ」と言われて驚きました。自分では気づいてなくて、無意識に「お」をつけてしまっているみたいです。
「子分気質だったから、荒い言葉を使ったことがない」
――北九州というと、『Helpless』や『共喰い』など、青山真治監督の映画で光石さんが演じられた役が話すような、荒々しい言葉のイメージがあったので、意外でした。お母様から「荒っぽい言葉を使っちゃダメよ」と言われていたのですか? 覚えてないです。ただ、子供の頃から体も小さかったし、クラスの女子からも「研!」と呼び捨てされていて、基本的に子分気質だったから、「おめえ」だとか荒っぽい言葉を使ったことがないんですよね。部活の後輩にふざけて言うことはあっても、元来そういうタイプではなかったですね。 ――北九州の人はどういう気質だと思いますか? とにかく興奮症と言いますか、すぐカッとなったり、集まるとすごいテンションになったりします。同窓会に行くと63歳にもなろうという連中が、顔を真っ赤にして喋っていますから(笑)。周囲を楽しませようという気遣いもありますし、情け深いところもある。土の匂いを感じますね。 ――光石さんは温和な印象ですが、カッとなることもあるのですか? 滅多に出ませんが、カチンときたときにはね(笑)。リバーサイドボーイズのみんなもそういうところはありますよ。あの4人で集まった時に一番テンション高いのは、僕かもしれないです。嬉しくなっちゃうので(笑)。 ――同郷ならではの、気を使わずに済む空気感があるのでしょうか。 地元にいた年代は違うし、3人とも東京に出てから知り合ったんですけどね。でもあの街に僕が18までいたことをみんなが知っているというのは、どんなにカッコつけても見透かされているような気がするんですよね。だから、でんでんさんや浩介くん、野間口くんとは最初から腹を割って付き合えたんだと思います。 ――逆に、普段東京にいるときには鎧をつけているような感覚があるのですか? 東京に住んで40年以上になって、だいぶなくなってきていますが、やっぱりありますよ。この街には仕事をしにきているという感覚がありますね。 東京の人やシティボーイに憧れますし、敵わないなと思います。