95歳で永眠した父の枕元に「幸子」のどら焼き、92歳の母には半世紀ぶりの添い寝で親孝行に浸る
<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム> 「父の日」の16日、95歳の父が逝った。商売柄、他人の訃報や追悼原稿ばかり書いているが、“家族の死”を迎えたのは、還暦を過ぎて初めてだ。 5月の初旬に緊急搬送されて1カ月。誤嚥(ごえん)性肺炎で「危篤」の宣告を受けながら、死の淵から戻って希望を持たせてくれたが、かなわなかった。 身内が危篤になって、困るというか、笑えないのが取材対象だ。なんでも取材するのだが、放送担当、お笑い担当が長いので、くだけたネタが多い。 ちなみにピンクレディーの替え歌問題で物議を醸した笑福亭鶴光(76)には、定年後に自由にインタビューが許されるようになり、すぐに「中学生の時から憧れていました」と伝えている。また、ピンクレディーのケイこと増田恵子(66)にもインタビューして、同時代を二分したキャンディーズについて聞いている。 実は先週は仕事でタイに行っていた。15日にタイのバンコク空港を出発しようとしたところで“いよいよ危篤”の連絡が入った。覚悟を決めて飛行機に乗り、羽田空港から自宅に帰り、車で実家のある埼玉の病院に駆けつけたところ、父の意識はまだあった。 翌朝午前6時に、また連絡があって病院に行ったが、持ち直した。90%まで下がっていた血中酸素飽和度も100%近くに持ち直した。実家へ1度戻り、再び病院へ。「これが最後かも」と別れのあいさつをして自宅に戻り、仕事の準備をしていたところへ、再びのエマージェンシーコールで駆けつけたところ、父は息を引き取った。 16日は、東京・虎ノ門のホテルオークラで「小林幸子60周年祝賀会」の取材だった。関係者には「行けないかもしれない」と連絡していたので、会場に顔を出して驚かれた。「ついていてやらなくていいのか?」という同業他社の記者には、「息子が楽しく仕事をしている方が、父親も喜ぶでしょう」となどと言いながら、ハラミちゃんのピアノ、廣津留すみれのバイオリンを伴奏に歌う、小林幸子の「おもいで酒」を堪能した。終了後は実家に取って返した。甘い物が好きだった父の枕元に「幸子」と焼き印された、「木挽町よしや」のどら焼きを供えられたのは、せめてもの親孝行だ。 翌日からは、姉と一緒に通夜、葬儀の準備。無宗教で、30年以上前まで真面目な経理マンだった父は「戒名は俺が決めてやる」と言いながら、決めることなく旅だった。 90代だから、8人きょうだいの多くがすでに亡くなっているか施設に入っており、葬儀に出席できるのは、元看護婦で闘病中にもアドバイスをくれた妹が1人。母方のきょうだいも母以外は亡くなっている。そんなこんなで、10人程度の親族で家族葬の規模でやろうと思ったら、葬儀場の部屋が空いていない。50人が入れる会場で、それに合わせた祭壇でやると、新型の国産車が買える見積もりを出された。「秋に新車に買い替えるのを諦めて、また車検を通すから」という謎の言葉で、姉を説き伏せた。 ところが翌朝、姉から連絡が。斎場に直接電話して確かめると、新しい小さな部屋が空いているという。再び見積もりを取り直すと、軽自動車1台分安くなった。ところが、いただけるであろう供花が納まらない…と、ドタバタの葬式準備になっている。次は、この経験を生かして頑張ろうと誓い合う、65歳の姉と62歳の私であった。 そして、大変だったのが92歳の母のケア。父の遺体は実家の奥の和室に寝ているのだが、さめざめと泣き続ける。和室は冷房を16度に設定してあるので寒い。なんとかなだめて、母に添い寝しながら寝かし付けた。考えてみれば、母と一緒の布団に入ったのは小学生以来、実に50年ぶり以上。ちょっとは親孝行できた気がした。【小谷野俊哉】