路面電車が変えた東京のグルメ! 銀座デパートに「お子様ランチ」が登場するようになった理由とは?
かつての食道楽における「食べ歩き」の不在
戦前に『月刊食道楽』という食通向けの雑誌があった。その1929(昭和4)年7月号には、漫画家・岡本一平(小説家・岡本かの子の夫で芸術家・岡本太郎の父)の「食道楽」という4コマ漫画が掲載されている。 【画像】漫画「食道楽」を見る! 漫画のコマには次のような場面が描かれている。 ・平民に変装しておでん屋を食べ歩く前大臣 ・中華料理の鯉の美味しい箇所を食べようと争う食通たち ・味噌だれが基本の信州のそば屋に東京の醤油味のそばつゆを持ち込もうとする人 ・ひとり2個制限のマグロのトロを3個食べたいと懇願する人 これらはすべて外食店での風景を描いており、昭和初期の食道楽が外食店の食べ歩きを指す言葉だったことがわかる。食道楽という言葉は、1903(明治36)年に発表された村井弦斎の小説『食道楽』によって広まり、世間の注目を集めるようになった。 小説『食道楽』は10万部を販売するという、当時としてはかなりのベストセラー。なぜそれほど売れたのかというと、若い女性が嫁入り道具としてこの小説を買い求めたからだ(黒岩比佐子『『食道楽』の人 村井弦斎』)。 なぜこの小説が嫁入り道具になったのかというと、『食道楽』は主人公の女性「お登和」がさまざまな料理を披露する内容で、料理のレシピが細かく記載されていたためだ。つまり、小説といいつつ実際には料理レシピ本だったのだ。 このことから、明治30年代の食道楽が外食店での食べ歩きではなく、「美味しい家庭料理」に重点を置いていたことがわかる。
明治20年代の食べ歩きと交通機関
小説『食道楽』以前にも、外食店を食べ歩くことを趣味にしていた人がいた。そのひとりが小説家の斎藤緑雨(りょくう)だ。小説家仲間の内田魯庵(ろあん)は、緑雨の食べ歩き趣味を次のように描いている。 「鳥は浜町の筑紫でなけりゃア喰えんの、天麩羅は横山町の丸新でなけりゃア駄目だのと、ツイ近所で間に合わすという事が出来なかった」 「緑雨はお抱えの俥が毎次待ってるから宜いとしても、こっちはわざわざ高い宿俥で遠方まで出掛けるのは無駄だ(緑雨は自家用人力車を持っているからよいが、自分は高い金を払って人力車を雇わなければならないので、遠方への食べ歩きは金の無駄だ)」(内田魯庵『おもひ出す人々』) 裕福な家に生まれた緑雨は、お抱えの車夫が運転する自家用人力車で鳥料理屋や天ぷら屋を訪れていた。一方、自家用人力車を持たない魯庵は、わざわざお金を払って人力車を乗っていた。 当時(明治20年代)の主な交通手段は、汽車、徒歩、人力車、そして(鉄道)馬車などだった。外食店を食べ歩くためには、時間と体力を使って徒歩で行くか、お金をかけて人力車を雇うしかない、事実上二者択一の状況だった。 その頃の食べ歩きは、斎藤緑雨のように自家用人力車を持っている人でなければ難しい、ハードルの高い趣味だった。 しかし、そこに新たな交通手段が登場し、食べ歩きに革命が起こる。路面電車の整備だ。