「なぜ、阪神の4番が『他チームの評価を聞いてみたい』と言ったのか…」大山悠輔のFA宣言は球団へ投じた一石
◇コラム「田所龍一の『虎カルテ』」 移籍かそれとも残留か―。FA宣言した阪神・大山悠輔選手(29)の去就が、いよいよ大詰めを迎えている。いや、もう結論を出しているかもしれない。もしタイガースへの「残留」であれば、球団はファンに大感謝しなければいけないだろう。 ◆これが阪神園芸の神整備【写真】 11月23日、甲子園球場で行われたファン感謝デーでの「大山、いかないで!」の大合唱。熱い「オ・オ・ヤ・マ」コールが、揺れる大山の心をタイガースに引き戻したのだと思う。だからこそ、同日に巨人の阿部慎之助監督が「どこかのタイミングで直接、交渉の席について思いを伝えたい」と出馬を表明。「阪神から巨人に行くことを懸念しているのなら大丈夫。もう、時代は変わった」とまで発言したのだ。 逆に「移籍」を選択した場合なら、そんなファンの熱い心でも止められなかったのはなぜか―と球団は謙虚な気持ちで分析する必要がある。ある阪神OBはこう指摘している。 「なぜ、阪神の4番が《他チームの評価を聞いてみたい》と言わねばならなかったのか。球団は功労者でもある主力選手や生え抜きの選手への対応をもう一度見直してほしい。大山のFA宣言は球団へ投じた《一石》である」 昔から阪神球団は力が落ちはじめた主力選手への扱いは冷たい。江夏豊(南海へトレード)、田淵幸一(西武へトレード)、江本孟紀(「ベンチがアホやから…」事件で退団)、岡田彰布(自由契約→オリックス)、今岡誠(戦力外通告→ロッテ)、能見篤史(自由契約→オリックス)、福留孝介(自由契約→中日復帰)、鳥谷敬(戦力外通告→ロッテ)。 まだ、FA制度がなかった時代、筆者は西武へのトレードを通告された主砲・田淵氏の《涙》を見たことがある。昭和53年オフのことである。当時、筆者はまだ大学4年生。大阪のサンケイスポーツでアルバイトをしていた。 11月15日の深夜、阪神球団は大阪・梅田のホテル阪神に田淵氏を呼び出し、西武へのトレード通告を行った。午前2時から12階の「1205号室」で始まった通告劇。部屋の前や廊下には約30人の虎番記者たちが会談の終わるのを待っていた。 午前2時半、筆者は現場で取材する記者へおにぎりとお茶の差し入れを持っていった。12階フロアは記者たちであふれ、紙コップをドアに当てなんとか声を拾おうとする記者、ドアの下からのぞき込もうとする記者で異様な雰囲気につつまれていた。 同2時40分、突然、ドアが開いた。田淵氏が出てきた。一斉に取り囲む記者たち。「どこで話す?」と田淵氏。急きょ、1階ロビーで緊急会見が開かれることになった。一団はエレベーターに乗り込んだ。なぜか筆者もその中にギューッと押し込まれた。なんと目の前に田淵氏の大きな胸。「ドクン、ドクン」と鼓動が聞こえたような気がした。顔を上げると田淵氏は泣いていた。 「オレを西武に出す―ってはっきり言った。こんなタイガースだとは思ってもみなかった。ガッカリだ。西武にいって勉強してこいだって。なぜ、タイガースではできないんだ? 自分たちでは教育できない、無能だと認めているのと同じじゃないか」 こう言って田淵氏は西武へ移籍した。 それから11年後の1990年(平成2年)、ダイエー・ホークスの監督に就任。茶色の縦じまのユニホームに袖を通した田淵氏はポツリこう言った。 「縦じまかぁ。でも、色が違うな」 球団への恨みはあっても「タイガース」というチームへは熱い思いしかない。それが選手の本当の気持ちなのだろう。 「応援だけじゃなく、時にはえげつない罵声を浴びせてボクを鍛えてくれた阪神ファンにいつか、機会があれば恩返ししたいなぁ」と田淵監督は口癖のように言っていた。 「背番号22のタイガースのユニホームは、今でもタンスの一番下の引き出しに大事にしまってあるんですよ。あの人にとってタイガースは特別なんです」という有加夫人の言葉を思い出した。 大山選手にとって「タイガース」とは? 特別なものであってほしい。 ▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の68歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。
中日スポーツ