裁判官の「中立公正」とは…実は“人をだます”のも仕事⁉「現職の裁判長」が明かす“意外な実像”
裁判官の「中立公正」とは?
裁判官は、その意味で「政治的に中立公正」とは言えない。他方で、裁判も大局的には三権分立による国政の一環であり、事案によっては政治性を帯びることは避けられない。 だからこそ、裁判官は積極的に政治運動をすること(裁判所法52条1号)を控え、「公正らしさ」を装わなければならないのである。 裁判官の「公正らしさ」論については、次のような論争が続いてきた。 ①裁判官は「公正」だけでなく「公正らしさ」が必要である。 ②裁判官である自分は「公正」だから「公正らしさ」は必要がない。 しかし、私は、両方とも間違っていると思う。 ③裁判官個人は「公正」ではあり得ないから、「公正らしさ」を装う。 というのが正しいのではないか。 私は、自信をもって自分が公正・中立であると言い切る人を信用しない。 現に、①「公正さ、公正らしさが両方必要」説を吹聴した石田和外(かずと)最高裁長官は、退官して、後の日本会議の結成に加わり議長になった。また、愛媛県靖国神社玉串料訴訟の最高裁大法廷の違憲判決に対し、合憲とする反対意見を書いた三好達(とおる)最高裁長官も、日本会議の会長や靖国神社崇敬者総代になった。 ②「公正さのみ必要、公正らしさは不要」説を吹聴する人については言うまでもないだろう。
裁判官が「人事」を気にする理由
裁判官が人事の話題を好むことは否定しない。しかしそれは、私に言わせれば単に「面白い」からである。 あの高裁長官は65歳の定年まであと何年だが、それまでに最高裁に入れるだろうか(最高裁判事の定年は70歳である)といった雲の上の話題も、誕生日のわずか1日の違いで運命が分かれる例もあるので、なかなか面白い。 身近なところでは、次の自分の部の裁判長にはいつ、どこから、誰が来るかという予想は、陪席裁判官には死活問題なので、関心が強い。 これらのことは、程度の差はあっても、官庁や民間企業でも同様だろうと思う。
裁判官は当事者を「だます」こともある?
私は、頭の良い裁判官たちは、むしろ「世間知らず」という誤解を利用しているように思う。 裁判官の見識は、なるべく当事者に知られないほうが有利だ。裁判官が世間知らずで、簡単に言いくるめられると思い込んで、悪人が調子に乗って言い放題に嘘を言い、墓穴を掘ってくれるからである。 大物の悪人(なぜか教育関係者に目立つ)の中には、裁判所は自分の味方をしてくれると信じ込んでいる者もいる。そういう場合は、黙って結審に持ち込んで、バッサリ斬ればよい。裁判官は全てお見通し。判断は極めて容易となる。世間の方こそ、ゆめゆめだまされないように。 ただし、最高裁の有名な「わいせつ」概念の判例のごとく、裁判官が確たる根拠も示さず「社会通念」を認定するのは、好ましくないと思っている。これは「世間知らずの社会通念」と言われても仕方がない。 現代であれば、世論調査の手法の工夫や回数も重ねられており、偏りが生じにくい公正な方法でやれば、かなり正確な意見分布を知ることができる。 世論は時々刻々と変わり得る。裁判所は、当事者双方に調査結果の証拠提出を求め、場合によっては統計関係の官庁に調査嘱託するなどして、世間一般の平均的意見すなわち社会通念を証拠により認定する努力をすべきであろう。 たとえば、「選択的夫婦別姓」の立法化への最近の支持率や、「生活保護受給者に自動車の保有・使用を認めるべきではない」というのが現時点でも国民の多数意見なのかどうかなど、裁判官としても知りたいところである。