「月尾島に生き埋めになった人民軍100人の遺骨を発掘して北に返還しよう」
海軍諜報部隊予備役中央会のイム・ヒョンシン会長
「仁川市月尾島(ウォルミド)の東側の洞窟跡を発掘し、生き埋めになった方々を探して北朝鮮に返してほしいです」 海軍諜報部隊(UDU)予備役中央会のイム・ヒョンシン会長(55)は、毎年9月、仁川(インチョン)上陸作戦記念日が近づく度に、感慨を新たにする。国軍情報司令部特殊任務旅団の一軸であるUDUで服務した一人として、マッカーサーと米国の観点にとらわれず、韓国のUDU隊員たちが作戦に貢献した事実を知らせるのに先頭に立ってきたからだ。ところが、最近は毎年9月15日前後に「(北朝鮮の)人民軍の遺骨」を思い浮かべると語った。 昨年3月22日、仁川研究院1階の大講堂で開かれた黄海平和フォーラム政策セミナー「仁川上陸作戦、保守と革新の対話」に討論者として出席したイム会長は、「米軍の艦砲射撃と地上作戦で月尾山東麓に生き埋めになった人民軍の遺骨を人道的見地で発掘し、返還することで、南北関係の行き詰まりを突破してみよう」とも話した。保守側の討論者として型破りな発言だったが、革新側も関心を示さず残念だったという。最近も機会あるごとにこのような提案をするというイム会長は、休戦後の北朝鮮特殊作戦に対し、なかなか勲章追叙を行わない韓国政府にも物申したいと語った。仁川上陸作戦と月尾島爆撃日が近づく6日午前、仁川新浦洞(シンポドン)のチャイナタウンにあるUDU予備役中央会事務室でイム会長に会い、詳しい話を聞いた。 月尾島は1950年9月15日、仁川上陸作戦を控え、10日から14日まで米軍の戦闘爆撃機と軍艦による無差別爆撃の対象になり、火の海へと変わった。10日には月尾島東側の民間人居住地に爆弾(ナパーム弾)が投下されてから、戦闘機による機関銃射撃が行われ、13~14日には10隻の軍艦が月尾島に720メートルの距離まで近づき、月尾島西側の丘の要塞に艦砲射撃を加えた。 仁川上陸作戦の際に洞窟に避難した人民軍 投降を拒否すると、米軍が洞窟の入口を埋めた 「遺骨の発掘、南北梗塞突破口になる可能性も」 仁川上陸作戦当時、海軍特殊部隊が活躍 10日、月尾公園で戦死者の追悼式典 「休戦以降の対北朝鮮工作も勲章を与えるべき」 真実・和解のための過去事整理委員会(真実和解委)が2008年に行なった「月尾島米軍爆撃事件」調査によると、1950年9月10日の爆撃による民間人犠牲者は約100人と推算された。人民軍駐屯地と民間人居住地域を全く区別せず爆撃を行った結果だった。13~14日の艦砲射撃で、月尾島の西半分の月尾山の丘にトンネルを掘って塹壕を作り、火力を配置した人民軍第226独立海兵連隊3大隊1個砲台と、第918野戦工兵連隊1個砲台400人余りの兵力が壊滅した。当時UDUの作戦を指揮したハム・ミョンス中佐(第7代海軍参謀総長)は、回顧録『海へ世界へ』(2007)で、「人民軍400人余りのうち108人が戦死し、136人が捕虜になったが、このうち100人余りは生き埋めになった」と書いた。 「米軍の爆撃でここに住んでいた住民が犠牲になり、故郷を離れて帰れなかったことを思うと、胸が痛みます。ところが、今まで誰もそこに埋められた人民軍のことは覚えていてくれませんでした。洞窟の入口から投降を勧めましたが、拒否されたことを受け、米軍がブルドーザーで入口を埋めてしまいました。74年も過ぎたのだから、もう人権の見地から彼らにも目を向ける時ではないでしょうか」。当時島だった月尾島は、干拓で今は仁川とつながっている。イム会長は、「今のように南北関係が行き詰まっている時が、むしろ遺骨を発掘し北朝鮮に引き渡す適期だ」と主張するが、まだ耳を傾けてくれる人がいない。 現実性も問題になる。正確な埋葬地を探し出すことは二の次の問題だ。北朝鮮は坡州(パジュ)の赤軍墓地にある人民軍の遺骨もいまだ引き取っていない。国軍の遺骨発掘の過程で、人民軍と中国軍(中国軍)の遺骨を発見したことはあるが、国防部の遺骨発掘鑑識団が最初から人民軍の遺骨のために発掘作業を進めたことはない。ただ、生き埋めになったにもかかわらず、忘れられた彼らの名前を初めて呼んだだけでも意味はある。関心の第一歩を踏み出したからだ。 江原道横城(フェンソン)生まれのイム会長は、高校生の時、仁川に引っ越した。1989年、中国の伝統武術の韓国代表に選ばれ、1990年の北京アジア大会への出場に備えていたところ、軍隊の招集令状が届いた。UDUに配属されたのは偶然だった。「水原(スウォン)兵務庁で特殊部隊に行きたいと言ったら、空輸特戦団など様々な特殊部隊を紹介する資料を見せてくれました。 『ほかはありませんか』と聞くと、本物の特殊部隊があると言って、兵務担当要員に連れて行きました」。イム会長は36カ月間外泊・外出の一切ない軍生活を送った。 現在、UDU予備役中央会には1200人の会員がいる。1948年の政府樹立から2002年まで勤めた彼らは、「特殊任務遂行者補償に関する法律」などによって、全員国家有功者として認められた。2002年3月、大統領との面会と政府の具体的な補償を求め、光化門(クァンファムン)で大規模なデモを行った結果だった。陸軍諜報部隊(HID)まで含めて1951年から2002年にかけて北に送られた工作員は1万1273人で、そのうち7987人が戻ってくることはできなかったが、政府が「そのような部隊はない」として彼らの存在を否定したことで、会員たちが総決起した。 イム会長は、1950年8月24日、八尾島南側の霊興島にUDUが真っ先に入り諜報作戦を始めたとし、仁川上陸作戦前夜の活動を説明した。17人からなる1チームが、霊興島でゲリラ戦をしながら時間を稼ぎ、特殊工作隊を月尾島と仁川側に潜入させ、人民軍兵力に関する情報を収集し、海軍本部を経由してマッカーサー司令部に伝えたという。UDU予備役中央会が毎年仁川上陸作戦戦勝記念行事の一つである「海軍諜報部隊戦死者追悼式典」に力を入れる理由だ。 今年の追悼式典は11日9時半、月尾島の月尾公園内のUDU忠魂塔で行われる。仁川上陸作戦の戦死者だけでなく、UDU全体の戦死者(450位)に対する追悼式典だ。また、民間人犠牲者に対する追悼の気持ちも表すという。 イム会長はインタビューの最後に、政府に対する残念な気持ちをにじませた。「1972年の7・4南北共同声明までの諜報部隊戦死者に対する勲章追叙を要請しましたが、朝鮮戦争の期間までに限るとして断られました。勲章も与えないのに、休戦協定後もなぜ部隊を存続させ、対北朝鮮特殊作戦を遂行させたのか問いたいです」 コ・ギョンテ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )