wowaka、早逝から5年 ハチ=米津玄師と比肩した稀代のボカロPが放ち続けるアンビバレントな魅力
初音ミク=無限の命へのアンチテーゼになってしまったwowakaの死
本来その死によって一人物を神格化する真似は断じてしたくないし、彼らの死そのものを過剰に特別視したくもない。だがwowakaの場合はいちミュージシャンとしての軌跡を追った時、彼はさながら太極図のように相反する要素をひとつどころか複数抱えて人生を歩き切った、他に類を見ない数奇な運命を辿った人物のように思えて仕方ないのである。 初音ミクという機械を用いて独りで音楽を作る道から、wowakaという生身の人間として他者と音楽を作る道を選んだこと。あまりにも早すぎたその死すら、何よりも彼自身が有限の命であると、かつて創作を共にした無限の命へ提示するアンチテーゼとなったように感じる。 数年後に訪れる未来など露知らず、彼が愛すべき歌姫の記念碑として2017年に制作した「アンノウン・マザーグース」。すでに作者がこの世を去った状況下で、その曲は刹那の命であるヒトから永遠の命であるアンドロイドへの贈り物として、あまりにも皮肉で意味深なメッセージを孕みすぎるようにも思えてしまう。 結果として逝去から5年経った今、有限の存在である人間たち=ヒトリエは活動を継続する一方、無限の存在である初音ミクは二度と彼の手によって音楽を紡ぐことはない。本来各々が所有する性質とは真逆の運命を辿っている点も、ある意味非常にアイロニックな結末だ。 かつてwowakaは、物事を俯瞰的に見られる自身の特性に自覚的な一面からも、その地頭の良さを覗かせていた。しかし当然そんな彼ですら、おそらく自分の死は想定外だったはずである。自身の背負った宿命をここまで分かりやすく示唆する演出など、いくら賢明な彼でも構成できるはずはない。 だがそれでも彼の歩んだ道程を今こうして改めて紐解くと、ともすればあまりにも出来すぎた脚本のドラマを見せられているような気分にもなる。その点もまた、機械と人間の創る音楽の狭間にいる大勢の聴衆を、wowakaが未だ魅了する理由のひとつなのかもしれない。 人間の父、機械の母の間に生まれた稀代のミュージシャン。 彼が遺した音は、言葉は、これからも多くの人々に愛されるのだろう。音楽がこの世界に歌い継がれ、その物語を紡ぎ続ける限りきっと。
曽我美なつめ