14代将軍・徳川家茂と一橋慶喜の不仲説 若き将軍が最後に下した未来への決断とは?
NHKで放送中のドラマ『大奥』では、幕末の動乱に揺れる幕府とそこに生きる人々の生き様が鮮やかに描き出されている。さて、史実でも13代将軍家定の後継者を巡る諍いの末に将軍位に就いた14代将軍家茂であったが、一橋慶喜とはどうもしっくりいっていなかったようである。今回は、時代が違えばまた異なる関係性だったかもしれない2人の将軍について取り上げる。 ■政治闘争と権力争いの果てに生まれた苦手意識 14代将軍・徳川家茂は、将軍職に就いた当初はいまだまったくの少年だったので、時の大老であった井伊直弼(いいなおすけ)の採用した路線(旧来の政治路線を踏襲する)をそのまま追認するほかはなかった。いわば、井伊直弼に丸投げする状況下にあった。ただし、幼いながらも、直弼に対する家茂の信頼は深いものがあったことは確かであろう。 このことは、安政7年(万延元年/1860)の3月3日早朝に、直弼が桜田門外で暗殺された際、家茂が、歎息(たんそく)しつつ、うろつきまわり、襲撃者を「憎き奴」だと怒りをあらわにしたこと、およびその後「落涙」して、食事も進まなくなったことなどで明らかである(万延元年3月7日付彦根藩家老あて〔か〕宇津木六之丞書簡〔『井伊家史料』26巻〕)。 しかし、杖とも柱とも頼った直弼が亡くなったことで、家茂も子供なりに、新しい政治状況に将軍として対応していかざるをえなくなる。それは、天下の大老が公道上で公然と殺害されたことで幕府の権威が一気に低下した現状を見据え、朝廷(天皇)の権威を借りて難局を乗り切っていく政治路線の採択であった。そして、それが皇妹和宮との結婚となり、ついで文久3年の2月と翌元治元年(1864)の正月の、2度にわたる上洛となった。結果、義兄となった孝明天皇の庇護の下、幕府の立て直しを家茂は進めていくことになる。 そして、この段階で、否応なしに、手を組まねばならないパートナーとして浮上してくるのが、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)であった。大奥や老中を含む幕府関係者が徳川斉昭の子だとして嫌悪していた慶喜に対して、おそらく家茂も当初好感を抱けなかったと思われる。直弼を襲撃したのは水戸藩を脱藩した浪士であったし、息子の慶喜を将軍職に据えることで幕府の実権を握ろうとする野望を斉昭は抱いていたと、さかんに吹聴されていたからである。 だが、家茂には、幕府の実力が明らかに低下した中、慶喜の登用を求める旧一橋派の大名や一部の朝廷関係者の強い圧力をうけて、慶喜を自らの後見者として受け入れるしかなかった(文久2年の7月、朝旨を奉じて、慶喜を将軍後見職に任じた)。 ところで、その後の慶喜との関係であるが、慶喜に対する嫌悪感らしきものは払拭しえなかったと思われるが、慶喜の存在とその能力は無視できなかったので、両者の関係は強められることになった。京都に在って、一会桑勢力(将軍後見職から禁裏御守衛総督に転じていた慶喜、藩主の松平容保が京都守護職であった会津藩、藩主の松平定敬が京都所司代であった桑名藩の三者によって構成される)の中心として、朝廷上層部との結びつきを強め、大きな発言力を持つにいたっていた慶喜を差し置いて、物事を推し進めることはできなくなっていたのである。 そして、両人に密接に関わる大事件がやがて出来(しゅったい)する。慶応元年(1865)の9月、幕府が欧米諸国と結んだ通商条約の孝明天皇による承認(天皇は頑として通商条約の承認を拒んでいた)を求めて、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの公使や代理公使を乗せた四カ国の連合艦隊が兵庫沖に来航した。ついで彼らは、条約の勅許を求めて京都に押しかける動きすらみせることになる。そのため、このあと慶喜の超人的な働きによって、孝明天皇がやむなく通商条約を承認する事態が生まれる(10月5日条約勅許)。 これは、むろん幕末史上においても画期的な出来事であったが、この間、家茂は、10月3日に慶喜に将軍の座をゆずりたいとの上書を朝廷に提出した。この家茂の驚くべき行為は、長年、家茂の本意にもとづくものではなく、慶喜への反発(当てこすり)によるものだと見なされてきた。が、近年では家茂の本心からなされた行為だったと見なされつつある。 すなわち、もはや開国体制への移行は避けがたいと見てとった家茂が、新しい体制のリーダーには自分よりも慶喜の方が適任だと判断したうえでの決断であったと、評されるようになってきているのだ。 さて、長州征伐のために大坂の地に在った家茂は慶応2年(1866)の7月20日に、脚気衝心(かっけしょうしん)のために病死するが、当時の家茂の様子を伝える史料を垣間見ると、死にゆく自分に代わって、慶喜に公務を託する気持ちが生じていたようである。最後の最後に、若き将軍は、改めてベストだと思われる選択をしようとしたといえよう。 監修・文/家近良樹 歴史人2023年11月号『「徳川15代将軍ランキング』より
歴史人編集部