彰子は「道長の道具」→「道長の主君」へ大変身…権力の絶頂にあった父親に出家を決意させた長女の圧倒的な力
■彰子が強い主張をするようになったきっかけ そうだとすると、妍子が三条天皇の皇子を出産すれば、道長はそちらを即位させ、妍子こそが国母になる可能性があったということだ。しかし、三条天皇は譲位し、それから間もなく亡くなり、言葉は悪いが、彰子にすればホッとしたのではないだろうか。 彰子が明らかに強い主張をするようになるのは、このころからである。すでに国母だという余裕ゆえかもしれないが、三条天皇が亡くなり、その皇子の敦明親王が東宮を辞退したときも、道長の日記『御堂関白記』によれば、彰子だけが露骨に不快感を示している。 一条天皇の退位をめぐっても道長と対立したように、彰子は道長の強引な手法には以前から批判的だった。その度合いが増したわけである。むろん、道長としては、摂政の座を譲った嫡男の頼通よりも、彰子のほうをずっと怖れていた。 道長が彰子に逆らえなかったことを象徴するのが、彰子に任命される立場だったという事実である。 寛仁元年(1017)11月、後一条天皇の元服に際し、道長は加冠(髷を結って冠をかぶせる役で、後見役であることを披露することになった)を務めたが、天皇の加冠は伝統的に太政大臣が行うので、道長は太政大臣になった。その任命は、藤原実資の日記『小右記』によれば、「母后の令旨」、すなわち彰子の命令によって行われたのである。 ■親玉・彰子から逃れるための出家 儀式が終わると道長は太政大臣を辞したが、いずれにせよ、道長は彰子には敵わなかった。というのも、道長は貴族としては従一位という頂点に上り詰めていたものの、あくまでも臣下にすぎなかったからだ。 一方、太皇太后、皇太后、皇后、中宮は皇族待遇で位階を持たない。当時の天皇家で皇族といえたのは、事実上、後一条天皇と東宮の敦良親王、そして太皇太后の彰子、皇太后の妍子、中宮の威子の5人で、なんとそれは道長の2人の孫と3人の娘で占められていた。彰子の立場から記述すれば、自分のほか2人の息子と2人の妹である。圧倒的な家長であって、彰子がいかにすごい立場にいたかがわかるだろう。 こうして皇族を自身の親族で固めたのは、道長の勝利であったが、同時に道長にとってのリスクでもあった。自分が臣下から抜けられない以上、いまや皇族の「親玉」である彰子に逆らえない。 道長は「この世をば」の歌を詠んだ5カ月後の寛仁3年(1019)3月、剃髪のうえ出家している。これは紫式部が内裏を離れたからではない。『日本略記』には「胸病」が原因だと記されている。ほかにも飲水病(糖尿病)の持病も進んでいたと思われ、健康不安が出家の大きな原因だったのはまちがいないだろう。 だが、ほかにも理由があったと考えられる。道長は実際、出家して「大殿」となり、臣下の立場を離れて天皇家と向き合えるようになったのである。彰子とある意味、対等に向き合えるようにするには、出家するほかになかった。