【戦争と犬】牧羊犬から軍用犬へ……日本にシェパードがやってきたのは第一次世界大戦が原因だった
今や日本でも確固たる人気を獲得しているシェパード。現代では警察犬や軍用犬といったイメージも強いが、元々は牧羊犬として人間と生活を共にしていた。この犬種の運命を大きく変えたのが、第一次世界大戦である。今回はその歴史を紐解いていこう。 ■元々は牧羊犬だった犬が戦争によって軍用犬へ シェパードは近年、家庭犬としてはあまり見かけない。しかし、警察犬として不動の地位を保っている。こういう使役犬は消えない。犬は需要があってこそ繁殖される経済動物なのだ。 今や社会に不可欠な犬種となったシェパード、正式にはジャーマン・シェパード・ドッグも、もとはと言えばドイツの一地方に生息している地犬だった。日本でも当初は「独逸牧羊犬」と呼ばれていた。それを世界的な警察犬適合種にしたのはドイツ人、フォン・シュテファニッツである。 子どもの頃から動物好きだったシュテファニッツは、母親の強い希望で一度は軍人になったものの、退役して、以前からの夢だった犬の繁殖を志すようになる。そして1899年4月3日、訪れたドッグショーで一頭の理想的な牧羊犬と出会う。 全身、“神経の塊”のようだったその犬は、『ホーランド・フォン・グラフラート』と名付けられて、今日に至るシェパード・ドッグの祖犬となる。今でもシェパードの正式な血統書名は、このような立派なものである。 そしてシュテファニッツは、仲間を集めてドイツシェパード犬協会(SV)を設立した。そして、計画的な繁殖で優秀な系統の確立に取り組んだのである。 シュテファニッツの目標は、あくまで優秀な牧羊犬を作出することだった。シェパード・ドッグとはドイツ語で、「羊飼いの犬」という意味である。しかし、牧羊犬の需要には限界があるため、警察犬に販路を求めて成功した。 そこで第一次大戦が起きると、今度は軍へ大量に献納して採用される。任務は主に生存者の捜索などで、その働きを目の当たりにしたイギリスやフランスが高く評価し、一気に普及した。 その第一次大戦に、日英同盟を結んでいた日本も参戦し、山東半島の青島を攻略した。青島は日清戦争後の三国干渉で、事実上ドイツが支配権を得ていた地域である。 その青島には、ドイツ人警察官が連れてきたシェパードの系統ができていた。これが当時、「青犬」と呼ばれた青島シェパードである。日本に送られてきたドイツ人捕虜がシェパードを連れていたのを、陸軍歩兵学校軍用犬研究班にいて、後にシェパードの権威となる有坂光威が目撃している。 昭和の戦争における日本軍の行状を考えると、捕虜が犬を連れてくるのを許したことは驚きだ。それのみならずオーケストラの結成も認め、ドイツ軍捕虜は日本で初めて、ベートーベンの交響曲第9番を演奏した。この逸話は2008年、松平健やドイツの名優ブルーノ・ガンツらが出演して、『バルトの楽園』という映画にもなっている。 大正14年(1925年)に創刊された、狩猟ファン向け雑誌『狩猟と畜犬』昭和6年(1931年)9号に、青島在住の佐々木米次郎が寄稿した「青島シェパードの今昔」という記事がある。 それによると、青島に住み着いた日本人は当初、シェパードに関心がなかった。しかし、しばらくして内地(と呼ばれていた国内)で、シェパードが大流行しているという情報がもたらされたのである。 内地の業者の中には、青島との間を往復する船の船員に金を渡して、シェパードを次々に連れてこさせる者も出現した。青島の日本人たちも「金になるぞ!」と大いに沸いた。犬を飼った経験のない者までが内地で売るために、急いでシェパードを飼うようになったのだ。 そうやって質を考えずにどんな犬でも売ったため、青島シェパードは質が低いという印象が広まり、やがて売れなくなってしまう。そこで青島の日本人は昭和4年(1929年)、青島シェパードクラブを設立し、上海デニーケンネルにも視察に行って改良に励んだ。 おかげで質も上がり、陸軍に献納できるまでになったのである。だが、それでもまだ一部の船員たちが、素性のはっきりしない犬を内地に持ち込んだ。それらは主に盗んだ犬だったらしい。 上海デニーケンネルは当時、東洋一といわれたシェパードの犬舎である。裕福な若い中国人デニー・チェン(程貽澤)が、本場ドイツから優秀なシェパードをたくさん輸入し、運営していた。日本からも見学者が訪れて隆盛を極めたが、盧溝橋事件から飛び火した上海事変で崩壊した。 同じく第一次大戦をきっかけにして、満洲のハルピンからもシェパードが入ってきた。満洲の東北部に位置するハルピンは、ほぼロシアが建設した都市である。 そこに第一次大戦中のソビエト革命後、白系ロシア人と呼ばれる王政派のロシア人が大量に流入してきた。彼らはボルゾイやジャーマン・シェパードを連れてきた。ここでも、シェパードが独自の系統を形成したのである。この青犬系とハルピン系が日本シェパードの祖先である。 昭和3年(1928年)、日本でもシェパードの愛好団体が設立された。日本シェパード倶楽部(NSC)である。富裕層や知識人、専門職など集まって結成した。経費もかかるし、特定の犬種を愛育するということ自体が、金持ちの趣味だった時代である。 それが3年後に満州事変が起き、那智と金剛という二頭の軍用犬が殉死して、シェパードの大ブームが起こる。陸軍は帝国軍用犬協会(KV)という国策団体を設立し、「お国のために軍用犬を飼おう」と訴えた。それに応じて、庶民層の中からもシェパードを飼う人間が増えた。 やがて日本シェパード倶楽部は、乗っ取りのような形で帝国軍用犬協会に吸収される。しかし、あえて合流しなかった理事たちは日本シェパード犬協会(NSK)を設立。本家のドイツシェパード連盟に連絡を取り、提携を願い出る。それが思いがけず快諾されて、ドイツからの直輸入ルートが開かれた。一方で、日本シェパードの草創期を支えた青犬は、昭和12年(1937年)の日中全面戦争開始による、青島在留邦人一斉退去によって壊滅してしまった。なお筆者の父親は、当時の青島で生まれた日本人である。 日本シェパード犬協会は、会長で皇族出身の筑波藤麿公爵が、陸軍の嫌がらせをかわし続けていた。理事には新宿中村屋の二代目社長や、電通の前身にあたる通信社の幹部で、盲導犬の命名者となる中根栄などの有力者がいて、厳密に血統を管理して系統繁殖を行なった。 極東の島国が、劣化させてしまうのではと心配していたシュテファニッツは、その様子を見てとても喜んだらしい。しかし本場のシェパードは、なまじ軍用犬として採用されたために、ナチスに目をつけられる。 1933年にナチスが政権を取ると、ドイツシェパード連盟はナチスドイツ畜犬連盟に組み込まれる。ドイツシェパード犬協会にも、ナチスの信望者が増えた。シュテファニッツは総裁の座を追われ、失意の中で亡くなった。 シェパードは、第一次大戦をきっかけに日本に渡ってきた。本場ドイツの陰に隠れてしまったが、青犬やハルピン系の存在も歴史に書き留めたい。
川西玲子