人はどうして”推し”に人生を捧ぐのか…?アイドルへの憧れを描く『トラペジウム』が与える尊さと気づき
乃木坂46のメンバーとして活躍した高山一実による長編小説をアニメーション映画化した『トラペジウム』が公開中だ。高校1年生の東ゆう(声:結川あさき)が、「SNSはやらない」「彼氏は作らない」「学校では目立たない」、そして「東西南北の美少女を仲間にする」という4箇条を自らに課し、アイドルデビューを目指す青春ストーリー。アイドルに憧れる主人公ゆうの想いはまっすぐで、時に周りが見えなくなるほど。その姿は「推し」に情熱を注ぐファンとも重なるところがある。 【写真を見る】アイドルに”なりたかった”者とアイドルに”なってしまった”者。その歪な関係性やすれ違いも描いていく 現在の社会において「推し」という言葉は広く普及し、アイドルはもちろん、俳優やミュージシャン、アニメのキャラクターなどなど、あらゆるものを人々は応援している。「人類にとって『推し』とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた」の著者である横川良明もその一人。そんな横川が『トラペジウム』を観たところ、「推し」について改めて考えるきっかけになったようだ。人々はどうして「推し」に熱狂するのか?一方、推される側の苦悩とは?駆け巡る想いをレビューとしてひも解いてもらった。 ■「推し」は人生であり、北極星であり、生命維持装置 「推す」とはどういうことなんだろう、と時折考える。いまや「推し」なる言葉は流行語の域を超え、日常用語として完全に定着。推し活はすっかり私たちの生活に身近なものとなった。 けれど、そうやって推すことがカジュアル化すればするほど、こうも思うのだ。こちとらそんな生半可な気持ちで推してるわけじゃねえぞ、と。 アイドルでも俳優でも芸人でもスポーツ選手でも、有機物から無機物まで推される対象はこの世に無数にある。どれを推したところで、やることは変わらない。金と時間をぶち込み、対価として興奮と恍惚を得る。極論、誰を推したって、何を推したって、たぶん幸せにはなれる。 それでも、自分にはあなたしかいないんだと。顔がいい人も、歌が上手い人も、踊りが上手い人も、芝居が上手い人も、話が上手い人も、ほかにたくさんいるけれど、あなたじゃなきゃダメなんだと幸せな思い込みをさせてくれるのが、推しだ。いわば、究極の一点買い。地球上に70億人の人がいるなかで、私はあなたを見つけて、選んだ。その日から推しは人生であり、北極星であり、生命維持装置である。会社の飲み会より、不毛な婚活より、現場が大事。オタクたちは大小様々な犠牲を払いながら、推しにベットする。 もはや推すというより、ちょっと「乗っかってる」感がある。しかも気持ち重めに。自分の体重を預けて、相手の人生の一部を、同じ景色を共有させてもらう。その狂気を「推す」と呼ぶのではないのだろうか。 ■「推し」への妄信を思い出させてくれる『トラペジウム』 なんてことをいまさら考えたのは、ある映画を観たから。乃木坂46の1期生・高山一実の同名小説を原作とした『トラペジウム』だ。主人公・東ゆうはアイドルという存在に胸焦がれ、アイドルになるために東西南北からかわいい女の子を集め、夢を叶えるべく次々と戦略を立てていく。決してピュアなヒロインではない。東西南北から集めた3人の女の子は、ゆうにとって仲間ではなく、夢を実現するための道具。彼女らの意志なんてものは最初から認めていない。時に人を傷つけながらも、なりふり構わず突き進む姿は痛々しく、その妄執はもはや狂気に近い。 でも、きっとそうなんだろう。私たちはどうしてあんなにも現場が好きなのか。灰色の毎日も、現場に来た時だけカラフルになる。あの熱狂は、推す側と推される側、両者の狂気がぶつかり、融解することで生まれるものなんだと思う。 オタクは現場のチケットを手に入れるために、熾烈な争奪戦を勝ち抜かなければならない。少しでも当選確率を上げるためにコツコツと徳を積む。当落日は、採点結果だ。奇跡的にチケットを得たならば、次は本番当日に向けてコンディションを万全に整える。体調はもちろん、たとえほんの一瞬であっても推しの目に映るかもしれない自分が最高の自分であるように、肌を手入れし、髪をメンテナンスし、運動をし、食事量を減らす。そして、自分がいちばんよく見える服を選ぶ。もはやオシャレなんて言葉では生ぬるい。トップク(特攻服)である。心のマイキーが「推しの現場に行くのにひよってるやついる?いねぇよなあ!!?」と煽っている。はたから見れば、愚かであろう。だが、そもそも現場は参戦するものである。オタクにとっては戦いなのだ。 ■推される側の人間に必要なのは覚悟 一方、推しとて本気である。年に何百回と板の上に立つ者であっても、現場は一期一会。1回1回のステージでどれだけベストなパフォーマンスを出せるかに全力を尽くす。夜中までレッスンに励むこともあれば、当然、自分が素敵に見えるよう計算もするだろう。少しでも手を抜いたらそっぽを向かれてしまうかもしれない。推しにとっても戦いなのだ。 だから、どんどんヒステリックに歪んでいく東ゆうの表情は、決して誇張でも露悪的でもない気がした。あそこまで取り憑かれた者だけが生き残れる。アイドルは、夢を与える職業だ。でもその夢が不純物ゼロのミネラル豊富な土壌で育まれたものではないことくらい、オタクだってわかっている。むしろいろんな汚濁を養分にして、それでも太陽めがけて咲く花ほど美しい。その覚悟を、人は推したくなるのだ。 だが、東ゆうが集めた残りの3人の女の子たちは次第にアイドルという生き方に疑問を覚えていく。東ゆうの策略でなし崩し的にアイドルになった彼女たちには、覚悟がなかった。結局、推される側になるための資質とは、顔のかわいさでもなくスタイルのよさでもなく、覚悟なんだろう。あらゆる毀誉褒貶の人身御供となる覚悟がいる。 ■ほかの人には見えない”光”を求めて推し続ける そもそも推される側に回りたいだなんて無謀なこと、正気の人間には思えない。自分にその可能性があると信じるには、世間が決めた安定とか常識とか、そういうセーフティーバーをぶっ飛ばすだけの勢いが必要だ。それがつまり、愚かになるということ。 推し活とは、推す側も推される側も愚かなんだと思う。推す側と推される側の間で交わされることなんて、第三者にとっては路傍の石ほどの価値もない。でも、当人たちにとっては、それこそが最上。狂っていると笑わば笑え。けれど、推し活がカジュアル化していくほどに、そんな狂気の純度こそが本来の推し活の熱源だったのではないかと、東ゆうは思い出させてくれる。 「はじめてアイドルを見たとき思ったの。人間って光るんだって」 そう東ゆうは言う。本作のキーとなる台詞だ。現実的なことを言えば、人間は自然発光しない。でも光っているように見えることは確かにある。 僕の場合は、舞台だった。初めて推しができた瞬間でもある。舞台で役を演じる推しを見て、うめき声のように「イエス・キリスト…」と口走っていた。比喩ではなく、神様を見つけた気がしたのだ。あの時、間違いなく推しは光っていた。 ならば、アイドルを―広義で言うなら推しを、光らせるものとは何か。それはやっぱりオタクの思い込みだと思う。なぜならほかの人にまで光って見えるわけではないから。他人に見えない光が自分にだけは見える。万人に見える光なんてつまらない。推しは、自分だけの可視光線。自分にだけ光って見えるからこそ、余計にその光は強く濃く燃え上がる。 ■ゆうにとって、東西南北のメンバーは推しだった 終盤、東西南北の一人である華鳥蘭子(声:上田麗奈)は、ゆうに向けて「見つけてくれてありがとう」と言う。セレブリティな家庭環境とちょっと変わった性格ゆえ友だちがいなかった蘭子にとって、目的はなんであれ自分を欲してくれたゆうは初めての友だちだった。そのお礼の言葉ではあるのだけど、これは同時に推される側の台詞でもあると思った。 見つけてくれてありがとう。いままでステージ上でこの台詞を言ったアイドルは数多くいるだろうし、口にしなくても同じ気持ちを秘めている推したちは数多いる。何者でもない自分を見つけてくれた人がいて、初めて人は推しになれる。 そこで気づいた。東ゆうにとって、東西南北として活動した3人のメンバーは、友だちでも仲間でも自分がアイドルになるための道具でもない。推しだったのだ。この子ならアイドルになれる。ゆうは、原石がダイヤに変わる可能性に懸けた。『トラペジウム』とは、推しを見つけたゆうと、はからずも推しになった3人の女の子の物語だ。結果的に、望んだ形にはならなかったかもしれない。でも、オタクの思い通りにならないのが推し。自分の期待や妄想をなすりつけたところで、推しがその通りに動いてくれることなんてほとんどない。そういう意味では、必然の結末だと言えるだろう。 ■推しと駆け抜けた日々や熱狂は永遠 でもだからといって、何も残らなかったかというと、決してそんなことはない。推しが表舞台から去ったり、自分自身の心が離れたり、推し活もどこかで終焉を迎える。部屋に溢れる大量のグッズ。代わりに失われた貯金と時間。自分はなんて無駄なことに労力を費やしたのだろうと途方に暮れる人もいるかもしれない。でも違う。推しと過ごした時間は、形あるものではない何かを残してくれる。ゆうが、3人の仲間と過ごした日々もまた同じだ。 そして、そんな意味があったのかなかったのかわからない時間も、遠巻きには輝いて見える。なぜ推しと駆け抜けた日々は光るのか。それもまた思い込みなんて言ったらドライすぎると思われるかもしれないけど、そんなことはない。夢を手繰り寄せ、幸せを掴むのは、いつだって思い込みが強い人だ。たとえば、東ゆうのように。 推し活の熱狂はこれからも続くだろう。こんなに誰もが推したり推されたりしたいのは、そこに世間の定義とは違う、自分だけの、自分のための幸せがあるから。アイドルが光って見えるのは、世間の声に媚びることも従うこともせず、ただ自分たちだけの、自分たちのための幸せを追いかける推しとオタクの狂気が、幸せが何かわからない大衆を強烈に揺さぶるからだと、『トラペジウム』を観て思った。 文/横川良明
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