昭和期に「ふてほど」な仰天企画を連発した康芳夫氏が死去 晩年は80代YouTuberに!素顔を語る
今年の流行語大賞「ふてほど」はTBS系ドラマ「不適切にもほどがある!」の略称であるが、X(旧ツイッター)では〝オールド・メディア〟に不信感を持つ層から「不適切報道」の略である旨の指摘が拡散して皮肉なトレンドになった。いずれにしても「不適切」が今年のキーワードとなった格好だが、くしくも、その発表と同日に87歳で死去した〝暗黒プロデューサー〟こと興行師の康芳夫氏こそ、現在のコンプライアンスからはあり得ない〝不適切な企画〟を連発した仕掛け人だった。(文中一部敬称略) 【写真】来日会見に登場したオリバー君!報道陣がカメラを一斉に構えた(1976年) この「不適切」という言葉は、予定調和な既成概念からはみ出し、世の中に刺激を与えるというポジティブな意味。康氏と共闘したプロレスラーのアントニオ猪木氏が引退後に格闘技興行をプロデュースする立場から連呼した「非常識」というワードにも通じる。 「虚実皮膜」の世界観を興行として追求する〝虚業家〟は、石原慎太郎氏が総隊長を務めた「国際ネッシー探検隊」(1973年)から、現役のプロボクシング世界ヘビー級王者であるモハメド・アリが猪木と激突した異種格闘技戦(76年6月)、「チンパンジーと人間の中間に当たる未知の生物」という触れ込みの「オリバー君」来日(76年7月)といった奇想天外の企画を実現した。 中でも地上波テレビ局とタイアップした「オリバー君」のメディアでの〝見世物小屋〟的な取り上げ方は、現在のコンプライアンス的にはあり得ない〝不適切〟な話だ。ついには人間の花嫁を募集し、異種交配で出産すれば報奨金を出すという企画にまでエスカレート。相当数の応募者から当時19歳の女性が内定したが、〝床入り〟はさすがに見送られたという。まさに「ザ・昭和」のエピソードだった。 その後はハイチでの「虎VS日本の空手家」(77年)、ウガンダの独裁者で元ボクサーだったアミン大統領と猪木の一騎打ち(79年)、旧約聖書に登場する「ノアの方舟」の探索プロジェクト(86年)など今では都市伝説化した企画に携わるも、いずれも計画は頓挫。結果として、ネッシー探索、アリVS猪木、オリバー君来日の3大企画を具現化した73-76年が〝絶頂期〟となろう。 その当時、リアルタイムで衝撃を受けた少年の一人だった記者が康氏と取材という形で向き合えたのは、2021年のこと。それまでも音楽イベントや映画館、河内音頭の盆踊り会場などで遭遇し、個人的に言葉を交わす機会はあったが、初めて仕事で接した康氏は84歳のYouTuberになっていた。 かつて〝天上〟にいた(…と記者が勝手に感じていた)康氏は〝地上〟に降り、70-90年代生まれの子どもや孫世代のクリエイターらに支えられながら、新たな表現形態としてYouTubeチャンネルの配信を続けていた。もし、昭和にソーシャルメディアがあったなら、康氏にとって格好のツールになっていただろう。晩年期にSNSに取り組んだことは納得の帰結だった。 取材現場での康氏は我を通すことなく、若い者を立てながら身を委ねている印象。ソフトで腰が低く、何度も語り尽くしたであろう問いにも丁寧に対応してくださった。想定した取材時間が過ぎても、こちらからストップをかけるまで、求められるままに話し続ける。逆に自分から「これを書いてほしい」と主張されることもなかった。 そんな康氏から、ただ1度だけ、アプローチされたことがある。石原慎太郎氏の訃報が流れた日(22年2月)、突然、記者の携帯電話に未登録の着信があった。折り返すと「康です」。手渡していた名刺の番号にかけてこられ、東大「五月祭」での出会いから英・ネス湖で過ごした日々など積年の思いと、送る言葉を委ねられて記事にした。その時ばかりは興行界入りの原点をお膳立てしてくれた恩師への〝仁義〟を感じた。 「ふてほど(不適切にもほどがある)」企画で昭和の日本を沸かせた康氏は「人生は退屈しのぎ」という言葉も残している。「退屈」が仕事の原動力になることもある。そして、もう退屈することのない世界に旅立たれた。 (デイリースポーツ/よろず~ニュース・北村 泰介)
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