ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (37) 外山脩
青柳については、資料類を見ても、その前歴に関する部分が乏しいため、人物像が把握しにくいが、熱心な海外発展論者で、米国を訪れたこともあったという。ブラジルに目をつけ、研究に着手したのは一九〇七(明40)年頃である。当時、日本で水野龍と知己となった。が、水野のカフェー園移民には反対だった。内情を知っていたのだ。その代り、 「ブラジルに日本の資本で植民地を造り、そこに出稼ぎではなく、永住を前提とする自営農を送り込む」 という方法を提唱していた。ペトロポリスの日本公使館の初期の頃の意見と同じである。 青柳の同志に大浦兼武という傑物がおり、一九〇八年、桂太郎内閣に農相として入閣した。それを機に、青柳は右の構想を『海外植民政策に関する意見書』に纏め、政府へ提議した。国策として実行するという内容であった。ところが、小村寿太郎外相が反対した。止むを得ず数人の同志を集め、東京シンジケートをつくり、計画を推進することにしたのである。 一九一〇年、青柳は東京を発った。シベリア経由でドイツを訪れ、その南米への移植民事業を調査した。 調査後、大西洋を南下、ブラジル入りし、ドイツ人の植民地その他を視察、さらにサンパウロ州政府と、種々交渉を重ねた。 而してイグアッペの五万㌶のコンセッソン契約を交した──という前後関係になる。 なお、これには日本公使館が協力していた。 契約後、青柳は帰日、この事業への出資者を本格的に募った。この時、桂首相が有力な実業家を招き、出資を要請してくれた。おかげで三十数人を確保できた。 この時、伯刺西爾拓殖㈱を設立、東京シンジケートの業務をこちらに移している。その理由については資料を欠く。(伯刺西爾=ブラジル。以下、ブラジル拓殖と表記) 資本金は一〇〇万円で、応募者の中には渋沢栄一、高橋是清、近藤廉平など当代一流どころの実業家の名があった。 青柳は取締役となり、一九一三年五月、サンパウロに戻り州政府と交渉、日本側の契約の主体を、東京シンジケートからブラジル拓殖に切り替えた。 ここまでの仕事ぶりは、いかにも敏腕家のそれであるが、愈々、イグアッペ入りした頃から難渋に見舞われる。まず、コンセッソンのための土地選定が遅延した。 青柳が現地の州有地を視察、譲渡を希望する土地を幾カ所か指定し、州政府も快くその手続きをとろうとする……と、その土地には、すでに勝手に住み着いている人間が居って占有権を主張、ゴネ出すのである。こうなると、裁判で決着をつける以外なかった。が、これは、とてつもなく時間がかかる。 そういう面倒が起こることを、州政府側は予想していなかったのである。ブラジル人通弊のいい加減さの泥沼に、青柳は嵌まったのだ。(この国を訪れる日本人は、大抵、同種の経験をする) それを知ったイグアッペの郡会議長アントニオ・ジュレミアスの計らいで、郡の所有地一、四〇〇㌶が、小型のコンセッソン方式で提供され、試験的な植民地が開設されることになった。 これがジュポブラ植民地である。 青柳は早速、建設にかかった。最初に日本から医師、土木技師、農業技師、ブラジル拓殖の社員を呼び寄せ、駐在させた。その内、医師はまず風土病の研究をした後、診療所を開いた。技師たちは植民地の測量・設計・営農計画、社員は雑務を担当した。 しかる後、土地を区画割りし、三十家族を入植させることとし、希望者を州内陸部のファゼンダで就労中の日本移民を対象に募集した。 ところが、これに応ずる者が居なかったのである。出稼ぎのつもりでいた移民たちが、この植民地が永住を前提としている事を嫌った上、その土地に魅力を感じなかった、といわれる。 青柳は仕方なく、サンパウロ市内の中心部にできていた日本人街、通称コンデ街に居た邦人を誘って、間に合わせた。 入植開始は一九一三年十一月である。 これより少し前、日本で桂太郎が没していた。翌年、ジュポブラ植民地は、桂植民地と改名された。 同年、上塚周平が社命で一時帰国している。「いずれブラジルに戻り、植民地を建設するか、農産加工業を起こす」と言い置いた。