父が語るドログバの素顔 日本に勝たねばならない理由
コートジボワール代表のキャプテンでエースストライカーであるディディエ・ドログバのストーリーは、他のアフリカの選手たちのそれとは異なる。貧しい家庭に生まれたわけでも、サッカーのためにヨーロッパに渡ったのでもない。サラリー問題で激しく主張し、ピッチ外で揉めるような選手とは一線を画し、その言動には品格がある。ドログバが、そんな選手に育った背景には、良識ある父の存在がある。
■サッカー選手ではなく医者になってほしかった ドログバは、5歳の時、フランスに渡った。プロ選手の叔父、ミシェル・ゴバが、ディディエを預かることになる。だが、この渡仏は、貧困が理由でもなければ、サッカー選手になるための選択でもない。当時、銀行員だった父のアルベール・ドログバが、幼い息子を海外に送ったのには、確固たる信念があった。「私自身も、サッカーを少しやっていました。弟のミシェルはコートジボワール代表にもなりました。ですが、ディディエをミシェルと同じプロ選手にしようなんて思ってもいませんでした。将来、良き人生を歩めるよう、いい教育を受けさせたかったのです」。 1980年代初頭、マラドーナが貧困からサッカーで立身出世するというサクセスストーリーを世界に知らしめるが、アフリカにおいては対岸の他人事。また、ロジェ・ミラが大活躍し、カメルーンをアフリカ勢初のW杯準々決勝に導いたのは1990年のこと。それ以前の時代のアフリカでは、サッカー選手が富を得るなどという話は、想像すらされていない。後に、自らもフランスに渡った父は、ディディエの学業成績が下がればサッカーを禁じ、上がればまたサッカーをすることを許した。「しっかり勉強して、医者か何かになって欲しかった。サッカーは、遊びでやる程度のことだと思っていました」。 ■フランス国籍を持ちながらコートジボワール代表を選択 結局、医者でも弁護士でもなく、ドログバはサッカー選手として富と名声を手にし、祖国の英雄の地位を得た。ドログバがコートジボワール代表となった2002年当時、選手間には派閥的な亀裂が存在し、一部の選手が試合前にボーナスを要求するなど、チームはモラルを問われていた。しかも、国は政情不安。そんな中、W杯出場その他の結果を残し、キャプテンとしてチームを統率、コートジボワール国民に希望の光を照らした。