センバツ初V 健大高崎・生方啓介部長 見守る指導、チーム支え 創部初期から運営携わり /群馬
健大高崎が県勢初のセンバツ優勝を果たした翌日、野球部長の生方啓介さん(42)は紫紺の優勝旗を携えた選手とともに帰校した。正面玄関まで出迎えてくれた大勢の人たちの中には、チームが勝てなかった頃から支えてくれた人の顔があった。「これだけの人に喜んでもらえる。すごいことなんだな」。あいさつする青柳博文監督(51)や箱山遥人主将(3年)を見守りながら涙がにじんだ。【日向梓】 【写真で見る歓喜の瞬間】歴代のセンバツ覇者たち 創部間もない2005年から指導し、ヘッドコーチ兼部長として、チームの運営に心を砕く。指導者として初めて甲子園の土を踏んだのは11年。ただ、自身の選手生活は頂点までの道のりと同様、平たんではなかったという。 野球を始めたのは6歳。3歳上の兄が入っていた少年野球チームの練習についていき、楽しさに目覚めた。同級生に比べ体も大きく、投手を任されるように。しかし、小学6年で最初の挫折を経験する。「いつかプロ野球選手になりたい」と夢見ていたものの、筋肉と骨の成長速度が合わず骨が変形し、右肘を手術した。「今も右肘は真っすぐ伸びないんです」 ギプスを着けたまま中学校の入学式を迎えたが「野球を続ける方法をずっと探していて、落ち込んでいる暇はなかった」。医学書などを参考に関節や筋肉の仕組みを独学で勉強し、指導者と相談して左投げに転向した。中学1年の夏には野球部の練習に戻り、最初は一塁手から始め、足の速さを買われて外野手になった。 県立沼田高での高校野球生活は、3年夏の群馬大会決勝で、後に県勢初の甲子園優勝を飾る桐生第一に敗れて終わった。東北福祉大へ進んだが痛めた右肘が木製バットについていけず、入学2カ月後には学生コーチになった。指導者の基礎を学び、卒業後も大学に残るよう誘われたが「武器のない自分では何もできない」と地元に戻った。理学療法士を目指して勉強していた時に、1本の電話がかかってきた。 同大OBの青柳監督からだった。健大高崎は01年に硬式野球同好会が発足。02年に部となったばかりだった。青柳監督は「1人での指導は難しかったので、群馬出身で優秀な子を探していた」と振り返る。 ◇選手との信頼関係が軸 野球の指導者は目指す人の数に対して枠が少ない。「知らないチームだったけれど、ものすごいタイミング」。すぐに練習試合を見に行った。「ピッチャーもバッターも『こんなふうに教えたらもっと良くなる』と自然と考えていた。このチームで指導者になりたいと思った」。その場で初対面だった青柳監督に引き受けることを伝え、05年4月、同校でコーチになった。 当時は野球部専用のグラウンドがなく、部員とともに校内の空き地で小石を拾い、雑草をむしってから基礎練習に入った。青柳監督が運転するバスに乗り込み、借りた球場でフォーメーションを確認する日々。指導陣のミーティングは真夜中近くに及ぶこともあった。長男が生まれて間もない時期と重なり「いつも睡眠不足で、家族にもたくさん負担をかけた」。それでも「一緒に勝つんだ」という一心で、時には厳しく発破をかけながら打撃力と機動力を磨いた。努力は実を結び、創部10年目の11年には夏の甲子園初出場を果たした。 「今回のセンバツでは、自分自身も大きく成長させてもらった」という。ベンチ入りメンバー20人は、青柳監督と相談して部員全員の意見を反映させた。指導者の視点では見えない側面を知る目的だったが、「部員と自分たちの意見はほぼ一致していた。子どもたちも仲間をよく見ている」と青柳監督。「この20人なら心から応援できる」という選手を選び、部全体が一つにまとまった。 準々決勝・山梨学院戦では、エース左腕の佐藤龍月投手(2年)が指を負傷し途中降板したものの、石垣元気投手(同)が好投でフォローした。不調の選手を別の選手がカバーしながら勝ち上がるのをベンチから見守り、自分たちでは作れない、不思議な試合の流れを感じた。「指導者が選手を引っ張り上げても、それ以上の成長はない。選手が自身の力を引き出せるように手を貸すのが自分の仕事だと改めて実感した」 4月はチームの土台作りに悩む時期だが、青柳監督とも話して「子どもたちを見守ってみよう」と決めた。自分で考え、工夫する選手は強くなるということをセンバツを通じて教えられたからだ。「昔は先頭に立って導こうと選手を厳しく叱っていたけれど、この数年は軌道修正する指導にシフトした。信頼関係が大事で、壁にぶつかった時に的確な助言ができるよう勉強しています」。選手だけでなく、10人いるコーチ陣含めて誰一人として取り残さないよう「一番後ろ」からチームを支える。 野球の指導者は目指す人の数に対して枠が少ない。「知らないチームだったけれど、ものすごいタイミング」。すぐに練習試合を見に行った。「ピッチャーもバッターも『こんなふうに教えたらもっと良くなる』と自然と考えていた。このチームで指導者になりたいと思った」。その場で初対面だった青柳監督に引き受けることを伝え、05年4月、同校でコーチになった。 当時は野球部専用のグラウンドがなく、部員とともに校内の空き地で小石を拾い、雑草をむしってから基礎練習に入った。青柳監督が運転するバスに乗り込み、借りた球場でフォーメーションを確認する日々。指導陣のミーティングは真夜中近くに及ぶこともあった。「いつも睡眠不足で、家族にもたくさん負担をかけた」。それでも「一緒に勝つんだ」という一心で、時には厳しく発破をかけながら打撃力と機動力を磨いた。努力は実を結び、創部10年目の11年には夏の甲子園初出場を果たした。 「今回のセンバツでは、自分自身も大きく成長させてもらった」という。ベンチ入りメンバー20人は、青柳監督と相談して部員全員の意見を反映させた。指導者の視点では見えない側面を知る目的だったが、「部員と自分たちの意見はほぼ一致していた。子どもたちも仲間をよく見ている」と青柳監督。「この20人なら心から応援できる」という選手を選び、部全体が一つにまとまった。 準々決勝・山梨学院戦では、エース左腕の佐藤龍月投手(2年)が指を負傷し途中降板したものの、石垣元気投手(同)が好投でフォローした。不調の選手を別の選手がカバーしながら勝ち上がるのをベンチから見守り、自分たちでは作れない、不思議な試合の流れを感じた。「指導者が選手を引っ張り上げても、それ以上の成長はない。選手が自身の力を引き出せるように手を貸すのが自分の仕事だと改めて実感した」 4月はチームの土台作りに悩む時期だが、青柳監督とも話して「子どもたちを見守ってみよう」と決めた。自分で考え、工夫する選手は強くなるということをセンバツを通じて教えられたからだ。「昔は先頭に立って導こうと選手を厳しく叱っていたけれど、この数年は軌道修正する指導にシフトした。信頼関係が大事で、壁にぶつかった時に的確な助言ができるよう勉強しています」。選手だけでなく、10人いるコーチ陣含めて誰一人として取り残さないよう「一番後ろ」からチームを支える。