「驚くほど洗練された高速爆撃機」海外も絶賛した旧海軍機とは 生みの親は戦後に鉄道へ
海軍の「陸上爆撃機」
「銀河」は旧日本海軍が開発した唯一の陸上爆撃機です。それまで空母に搭載する艦上爆撃機や、陸上から運用し、爆撃や魚雷攻撃(雷撃)ができる陸上攻撃機は存在しましたが、陸上から運用する前提で、急降下爆撃や水平爆撃を行える航空機は存在しなかったのです。 【貴重なカラー写真】陸上爆撃機「銀河」 もっとも「銀河」は魚雷も搭載できたため、陸上攻撃機ができることは全てできた万能機でした。「銀河」に類似する航空機は終戦まで登場しませんでした。 なお「銀河」は開発経緯も一風変わっていました。旧日本海軍では、作戦・指揮を統括する軍令部が性能標準に基づいて、海軍省に必要な航空機を要求して開発していましたが、後に「銀河」となる十五試陸上爆撃機は、性能標準には存在しない機種でした。 横紙破りが許されたのは、その性能標準を作る側である海軍航空技術廠(空技廠)による実験機が始まりだったからです。そもそも「銀河」自体が実戦用の爆撃機開発計画ではなく、航続距離の世界記録を狙う実験機「Y20」として計画されたものでした。 1940(昭和15)年に、実戦部隊の航空参謀から「航続距離3000海里(約5500km)の大航続力で、1トン爆弾を急降下爆撃できる高速爆撃機が登場すれば、航空戦力が画期的に向上する」という要望が出され、Y20が「銀河」の研究にシフトしました。 当時、欧州で始まっていた第二次世界大戦では、「戦闘機より速い爆撃機」として開発されたドイツ軍の双発爆撃機「Ju88」が急降下爆撃もこなしており、双発爆撃機への期待度が高まっていたのです。
要求性能を超えた試作機
「銀河」の目指した航続力5500kmとは、一式陸上攻撃機一一型の偵察状態である5882kmに近く、急降下爆撃機としてはとてつもない数字でした。大航続力で有名な零戦二一型でも3350kmです。そのような爆撃機が実現したら戦闘機は護衛できませんので、零戦並みの高速性能で身を守ることとされました。旧軍の常として要求は膨らみ、「銀河」は魚雷も搭載可能で大型空母からも発艦できる航空機とされたのです。 高性能を実現すべく、通常は行わない試作中のエンジンである中島飛行機NK9B(後の「誉」)を搭載。さらに重量を軽減するため、搭乗員を3名にまで減らしました。ちなみに、同じく双発の一式陸上攻撃機の搭乗員は7名です。胴体幅はわずか1.2m(一式陸攻は2m)で、これは単座戦闘機である零戦と同じ細さでした。 飛行中にパイロット交代はできない構造なので、疲労軽減のために自動操縦装置やリクライニング機能付き操縦席が装備され、熟練搭乗員の乗務が前提でした。 この時期の日本機としては、防弾装備も配慮されていました。座席背後には厚さ7mmの防弾鋼板、エンジンには消火装置、9個ある燃料タンクのうち2~5番の常備タンクは全て防弾で(非防弾タンクは進撃時に燃料を使い切る前提)、厚さ32mmの独立気泡スポンジゴムで守られていました。 1942(昭和17)年6月に完成した試作機は、最高速度566.7km/h(要求は511.2km/h)、航続距離5371km(同5556km)、急降下制限速度703.8km/h(同648.2km/h)と、要求性能をおおむね上回る高性能を発揮します。それまでの一式陸攻一一型の最高速度453.7km/hから飛躍した性能でした。ただし防御火力だけは20mm旋回機銃2挺と少なく、一式陸攻一一型の7.7mm旋回機銃4挺、20mm旋回機銃1挺より劣っていました。 このような高性能を示した「銀河」ですが、空技廠の設計では量産できないとして、中島飛行機が設計を変更するなどした結果、中島製の試作機が完成したのは1年2か月後の1943(昭和18)年8月。量産は同年11月からとなりました。