「リオ五輪4継リレーでの銀メダル獲得」が走れなかった高瀬慧に与えたダメージ「部屋に閉じこもってテレビも観られなくなった」
5人目のリレーメンバーが見ていた景色 高瀬慧 編(後編) 前編:ロンドン五輪で高瀬慧が味わった複雑な心境>> 走り幅跳び日本女王・秦澄美鈴 前半では、オリンピックで初めて日本代表に入るまでの道のりとともに、200mで結果を残しながらも2012年ロンドン五輪代表では花形である4×100mリレーではなく、4×400リレーに選ばれたことへの葛藤について語ってもらった。後編では、そこから2016年リオデジャネイロ五輪で4継リレーを走るために何をしたのか。また、走れなかったからこそ学んだことを聞いた。 ◇◇◇ 2012年ロンドン五輪で4×400mリレー(マイル)を経験し、個人としては200mの準決勝を走った高瀬慧(富士通)は、花形である4×100mリレー(4継)のメンバーには入れなかった。その現実を突きつけられた時に感じたのは、「これまでの自分は100mをしっかり走ってこなかったから」ということだった。 「悪く言えば、(そう思うことで)自分を納得させようとしていたのかもしれません。『何で自分が入れないんだ』と思うのではなく、選ばれなかったのには理由があるでしょうし、『自分が走るためにはどうしたらいいんだろう』と考えるほうが先でした」 そこで100mへの本格的な挑戦を決意し、「100mでタイムを上げ、4継リレーの経験が足りない部分は記録で補って選ばれるようになることが必要」と考えた。 まずは、これまでの環境のほかに海外で練習を積むことを選んだ。 「(2013年の)年明けからは、初めて海外で練習をすることができて、アメリカのジャスティン・ガトリン(04年アテネ五輪100m金、05年世界選手権100m、200m2冠)のチームに行かせてもらい、100mにシフトするきっかけとなるトレーニングができました」 その成果は春の陸上シーズンに入ると徐々に現れた。
2013年4月の織田記念陸上は、100m予選で桐生祥秀(洛南高)が10秒01を出して世間に衝撃を与えたが、その裏では2位に入った高瀬も自己記録を0秒20更新する10秒23を出していた。 そして6月の日本選手権でも山縣亮太(慶應大)と桐生に次ぐ3位になり、200mでは3位。2度目の世界陸上は、前回のマイルリレーではなく、個人種目と4継での代表入りとなった。 残念ながら個人200mは予選落ちだったが、4継は決勝の舞台に進み6位という結果を残した。 「(4継の決勝は)雰囲気が予選や個人の準決勝とは全然違うと感じて、緊張をとおり越してめちゃくちゃ楽しくて『ここで走れるのは幸せだ』と感動したし、『もう一度ここで走りたい』と思いました」 そんな前向きな気持ちが、その後の高瀬の進化を加速させた。 「2013年から始めたアメリカでのトレーニングが、1年かけて消化できて2014年につながりました」と話すように、2014年4月の織田記念の100mで10秒13の自己新を出して優勝。続く静岡国際の200mでは2位ながらも、予選で日本歴代6位の20秒34を出した。そして、5月下旬の世界リレーの4継で2走を務めると、2015年世界陸上の出場権獲得に貢献した。 その世界リレーで足を痛めてしまい不安が残るなか、9月のアジア大会の代表に選ばれた。 「ケガで欠場した桐生の代わりに出た100mで3位になれましたし、4継は4走で憧れの先輩でもある高平さんからバトンをもらって2位になれたので、よかったのかなと(笑)」 このアジア大会は結果だけでなく、高瀬にとって掴むものがある大会になったという。 「(100mの決勝で)加速時のギアをどこで変えていくのかを初めて感じたんです。『ここだ!』という瞬間がわかり、100mで結果を出している人たちの感覚がわかりました」 自分の走りを見つけて臨んだ2015年も各大会で安定した結果を残し、6月の日本選手権の200mで2位、100mでは初優勝を果たした。 「できれば桐生と山縣がいるなかで優勝したかったです」と振り返るが、100mと200mの2種目で世界陸上の代表に選ばれた。 世界陸上で、男子短距離の2種目に出場する日本人選手は、1999年の伊東浩司以来と珍しいことで、逆に言えば、体への負担があるが故に2種目に出る選手がいなかったとも言えた。