ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (48) 外山脩
南樹はその頃、サンパウロで日伯新聞の記者をしていた。 同紙は週刊南米に次いで一九一六年に発刊された。石版印刷で紙面も小さかった。滑稽なほど貧弱であったが、広大な地域に散在、ニュースに飢える邦人を喜ばせた。 因みに週刊南米は、謄写版印刷であった。 南樹は、日本では地方紙の記者であったから、これが本業だったともいえる。が、心は上塚からの誘いの方に傾いていた。「共同事業としての植民地建設」という話だったのである。「自分の植民地を持つ」ことは移民……特に気概ある男なら誰でも一度は抱く夢であった。国造りに似ていたからだ。 香山六郎は、その頃、サンパウロを食い詰めて、モンソン植民地に居た。営農成績は上り坂にあったが、彼もこの植民地建設というロマンの魅力から逃れることはできなかった。 上塚がサントスに着いた。ところが、サンパウロまでの汽車賃すら持っていず、出迎え人に頼った。その夜の歓迎会でも、 「今の私は、正真正銘の素寒貧であり、一切、皆様の厄介になります」 と挨拶、参会者を唖然とさせた。その奇癖の厚かましさを、遺憾無く(?)発揮した場面である。 こういう調子でも、南樹と香山は翻意しなかった。これは「上塚」という名前が、植民地の入植者を募集する際、役立つと踏んでいたからである。 上塚は有名人だった。何といっても数年前までは皇国、竹村の両移民会社を代表していた人物であり、さらに、奇妙なほど人気が出ていた。人気が出た──という点では平野運平と似ている。 上塚の周辺には南樹、香山の他にも植民地建設の同志が何人も集まった。 翌一九一八年、彼らは、サンパウロ州西部ノロエステ線エトール・レグルーの三、八〇〇㌶の原生林を買い、二四・二㌶単位で区画割りして、分譲を始めた。これがイタコロミー植民地である。 イタコロミーとはインヂオの言葉である。近くにインヂオの部落があった。そこへ入り込んで生活している日本人が居たという。 このイタコロミー植民地も、計画性も何もなかった。資金もなく医師も居なかった。が、入植希望者は、やはり上塚の人気のせいで、結構あった。 問題は財務管理である。地主への支払いは、入植者から分割で集金する土地代で、賄うことにしていた。が、期日通り払ってくれるとは限らない。当然、資金繰りが狂うこともあろう。その場合、どうするか? ここまでの上塚の生活費や諸雑費は、三隅棄蔵という──サンパウロ日本総領事館で副領事をしていた──帝大の先輩が、面倒を見てくれた。上塚、すでに四十一歳。 翌一九一九年には、やはり地主への支払いが危なくなった。この時は、日本から菊池恵次郎が、資金を持って救援にかけつけた。 その一部で支払いを済ませたが、残りを遊ばせておくのは勿体ないと、それを資金に稲と棉を栽培した。が、稲は青枯れ、棉は害虫で全滅してしまう。無論、投下資金の回収は不可能となった。 こんな調子だったが、新規の入植者は後を絶たなかった。イタコロミー植民地そのものの受入れ能力は百数十家族が限度だったが、その周辺には新しい入植地が次々とでき、開設十数年後には、千家族を越すことになる。 上塚の人気による処が大きかった。 なおエトール・レグルーは一九二〇年、プロミッソンと改称された。 一九二二年、上塚は、もう一つ植民地を造ろうとした。場所は、同じノロエステ線の沿線で、プロミッソンから余り遠くないリンスの南方、グァインベーという所である。そこに在った七、〇〇〇㌶の原生林に目をつけた。しかし資金は無かった。