あだ名はロボット!F1の聖地イモラで史上初めて君が代を響かせた17歳レーサー”超ストイック人生”
1994年5月、F1の聖地であるイタリア・イモラサーキット。 サンマリノGPに参戦していた「音速の貴公子」アイルトン・セナはイモラの超高速左コーナー、タンブレロを曲がり切れずにコンクリート壁に激しく衝突した。即死だった。世界で中継されていたレース中の事故、しかも34歳という若さでの訃報は、多くのF1ファンを悲嘆の海に沈めた。 【画像】は…速い! イタリアのレースでポールポジションを獲得した天才レーサーの走り イモラの悲劇からちょうど30年が経った今年6月、セナは伝説のレーサーであり、「名前しか知らない」と言う17歳の日本の青年がタンブレロコーナーをトップで走り抜け、そのまま表彰台の真ん中に立った。聖地イモラに「君が代」が流れたのは史上初。世界最高峰のF1の下部カテゴリーのF4ではあるが、日本の若き挑戦者が快挙を成し遂げた瞬間だった。 6月に行われたイタリアF4の全3戦、そのすべてのレースの予選でポールポジションを奪い、1戦目と2戦目を連勝したのは山越陽悠(やまこし・ひゆう)。’06年に東京都板橋区で生まれ、15歳の若さで渡欧。イタリアF4やユーロF4で結果を出し続けている日本のモータースポーツの “期待の星”である。 短い夏休みを使って帰国していた山越を訪ねた。 ◆「ロボット」の矜持 「子供の頃からトミカのミニカーを集めていました。ハッキリした記憶はないんですが、ミニカーを手で動かしてずっとレースしていたと両親から聞いています。ミニカーがすべての始まりであることは間違いないです」 まだ幼さの残る顔付きからは、最高速度245kmのフォーミュラカーを操って世界のレーサーたちと戦っている姿はとても想像できない。 「レーサーになったキッカケは小学校2年生の時に、旅行先のグアムで乗ったゴーカート。自分でマシンを操るという行為が楽しくて、帰国後すぐ、両親に“カートのできる施設に連れて行ってくれ”とお願いしました。それまで、父の趣味であるスキーやゴルフなどを体験させてもらっていましたが、カートの魅力にはとても及びませんでした。埼玉県飯能市のサーキットにあるキッズスクールに通いつめて必死に練習しました」 山越はすぐに才能を開花させ、レースで勝利を重ねた。 「小学校6年生の時に『次の全国大会で優勝したら、海外のレースに挑戦させてほしい』と両親に直談判しました。なぜそんな大それたことが言えたのか。その理由は思い出せませんが“ここが分岐点になる”という直感みたいなものがあったのは覚えています」 国内各地で行われているレースで獲得したポイント総数の上位者のみが出場できる「SLカート全国大会2019」で山越は見事に優勝。海外への扉を開いた、かに見えたが――。 「両親はすぐに留学先探しを始めてくれました。ただ、新型コロナウイルスの感染拡大と時期が被ってしまって……その後2年間、国内でのレースに専念しました。父が欧州のレースに参戦するチャンスを作ってくれたのはコロナが落ち着いたころ、中学校の卒業まであと2ヵ月あまりというタイミングでした。渡欧すると3ヵ月は帰国できないので、卒業式には出られない。でも、迷いはありませんでした。担任の先生や校長先生も理解を示してくれて、卒業証書は父が代わりに受け取ってくれました」 周りと違うことをするのは怖い、変に目立つのはカッコ悪い――ともすれば、引っ込み思案になりがちな思春期の真っ只中に山越はひとり、欧州で戦う決断をした。留学先はスイス。当時、「英語は全く話せなかった」という。 「今では日常生活に不自由しないくらい英語を使えますが、当時は話すことも聞くこともできず、苦労しました。でも、それでよかったんです。友達を作りに渡欧したわけじゃない。レースをするために日本を発ったんですから。同級生とコミュニケーションを取るよりも、自分のトレーニングを優先していました。おかげで当時付けられたあだ名は『ロボット』。言葉がわからないから、笑うこともない。黙々と筋トレばかりしていたからでしょうか」 いじめに繋がりかねないあだ名にも聞こえるが、山越の表情からは“それがどうした”という芯の強さが窺えた。 夢を抱いて留学しても、環境の違いや文化の違いに苦しむ若者は多い。甘い誘惑も多いだろう。周りの人間に影響されて楽なほうへ流され、貴重な時間を浪費してしまう。そんなアスリートの卵たち、研究者の卵たちは数えきれないほどいる。だが、山越は違った。授業やレースのない休日もトレーニングは欠かさず、YouTubeでレースの研究をした。 「ネット環境はあるので、日本の人気テレビ番組や流行などをキャッチアップすることはできます。ただ、僕はそうしなかった。興味がなかったから」 30歳になっても「野球小僧」と呼ばれ、私生活のほとんどを野球に費やしている大谷翔平の顔が浮かんだ。しかも、チームスポーツである野球と違い、山越には同僚や仲間と呼べる存在もいない。自分で自分を律し、鼓舞し、闘い続けていかねばならない。ストイックさ、心の強さに頭が下がる思いがした。だが、そんな山越にも「怖いものがある」という。 「事故ですね。モータースポーツである限り、事故は完全には避けられませんから……」 「怖い」という言葉を聞いて、ようやく17歳らしい素顔が見られると思いきや、その“理由”に驚かされた。 「事故を起こしたらマシンが壊れ、修理のためにお金が掛かってしまう。スポンサーさんに迷惑がかかってしまいます。それにケガでもしたら、治るまで練習できなくなる。貴重な時間を無駄にしてしまう。だから僕は、事故が怖いんです」 あだ名である『ロボット』よろしく、表情を変えずに山越は続けた。 「事故にも種類があって、“一瞬に感じる時”と“スローモーションになる時”があります。僕の勝手な憶測ですが、一瞬に感じるのは命に別条がない事故。スローモーションになるのは、命の危険がある事故だと思っています。スローに見えたからといって、ハンドリングで事故を避けられるかというと、さすがにそれはできないんですけど……」 人間は危機を感じると、視力など身体のあらゆる機能を低下させてでも脳を最大限に活かそうとするため、結果として視能が落ちて周りがスローモーションに見えるといわれている。タキサイキアと呼ばれる現象で、専門家による研究が進んでいるが、普通の生活をしている人間が経験することはほとんどない。モータースポーツという特殊な世界で生きているからこそ、遭遇を避けられない体験だ。 それでも山越が事故を恐れるのは、命の危険があるからではなく「自分の夢が遠のく可能性があるから」だ。 「F1ドライバーとしてのデビューの限界は2030年、25~26歳の頃だと思っています。若いドライバーは世界中から次々と出てきているのに、F1ドライバーとしてチームと契約できるのはたったの20人。そう考えたら17歳なんて若くない。遠回りしている時間なんてないんですよ」 こんなにもストイックな青年の成長を、母親はどう見ているのか。 「彼が自分でカートを始めたいと決め、夢中になり、喜びや悔しさを学んでいく姿をずっと見守ってきました。ただ、15歳で親離れのタイミングが来るとは思っていませんでしたね。今は全力で応援していますし、すべてのレースをYouTubeのリアルタイム配信で見ています。とはいえスタートの瞬間は今でも怖くて目を閉じてしまいます。きっと……慣れる日は来ないと思います」 そんな母親の心配をよそに、山越は得意のスタートダッシュを決め、コーナーを攻めていく。目標であるF1ドライバーに向けてブレーキを踏むことはない。 件(くだん)のイタリア・イモラサーキットのタンブレロコーナーが見える位置には、アイルトン・セナの銅像が立っている。今も多くのファンが弔問に訪れ、母国のブラジル国旗や花束が供えられている。セナは当時乗っていたマシンのエンジンメーカーだったホンダの創業者である本田宗一郎氏と親子のように仲が良かった。モータースポーツの本場はあくまで欧州。そこに南米のブラジルとアジアの日本とで共闘して、欧州にその名を轟かせてやるんだという夢があったそうだ。そんな経緯もあってセナは日本を愛し、日本に愛される存在になった。セナは自身の命を落としたコーナーを攻め、孤独な闘いを続ける日本の青年をどのような想いで見守ってくれているのだろうか。 インタビュー終了後、夏休みの予定を聞くと、ようやく山越はロボットの仮面を外し、17歳らしい無邪気な笑顔を見せた。 「友達と渋谷に行って、ひつまぶしともんじゃ焼きを食べます。その後はスーパー銭湯にでも行ってゆっくりします。全部、スイスにはないものですから」 撮影・文:麻生剛
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