父と逃げた、14歳の夜 「青森空襲」から71年
青森市街地の9割が焼けたとされる「青森空襲」から28日で71年となった。1時間あまりの空襲にもかかわらず、8万発を越える焼夷弾の投下により街は炎に包まれ、犠牲者は1000人を超した。東北地方で最大規模の被害とも言われる。 今回、空襲を経験した女性を訪ねた。
「逃げるのが必死で」
燃えるような熱さ、沼に浮く遺体、「助けてください」と呼び止める重傷者―。 「あの時は全然怖いとも思わなかった。死んだ人を踏んづけて歩くのも、気持ち悪いと思わなかった。自分が逃げるのが必死で」 同市に今も暮らす木村弘子さん(85)は振り返る。
当時、女学校3年生だった木村さん。母や弟たちはすでに疎開しており、空襲の夜は父功一郎さんと2人だった。 海産物卸を営んでいた関係で、自宅は港の近く。2人は近所の神社や青森駅などを経由し、市街地から急いで離れていった。 駅に向かう途中、防空壕があった。入ろうとしたが、すでに20人ほどが身を寄せており、満員。断念して駅に着いたとき、後方で「バーン」と音が。さきほどの防空壕が砲弾の直撃を受けていた。
「足の踏み場もない」
空襲そのものは1時間あまりで終わった。避難していた木村さんらも、夜明けとともに市街地に戻った。そのときの光景が忘れられない。 「足の踏み場もないほどの遺体、遺体、遺体…。顔が焼けただれ、皮もむけて、お腹から腸が出て。抱っこしている赤ちゃんがまだ、もにゃもにゃと生きていた」 あまりの炎と煙に水を欲したのか、川にも多くの亡くなった人の姿があった。 「すごい臭いだよ。生き地獄」 衣服などから身元が分かる人もいたが、判別する手立てのない人も多かった。 「軍のトラックが来て。フォークみたいなスコップみたいなので『ガー』と。金持ちの奥さんでも、旦那でも、みんなトラックへぼんぼん積んで。墓地で油かけて燃やしたんだって」
青森空襲では市街地の9割が焼けた。住む場所を失った木村さんは父とともに、母らが疎開していた同県黒石町(現・黒石市)を目指し、数十キロの道のりを歩いた。 道中、農家の人からもらった芋やカボチャの煮物の味が忘れられない。 ようやく疎開先に到着すると、母は開口一番、「おばけじゃないべ?」と尋ねたという。2人が亡くなっていたと思っていたのだ。 「(近くにいた)おばさんも『足ある?足ある?』って言って。笑い話みたいでしょう。あのときの感動は言葉では表せない。お母さんもうれしかっただろうけど、これが親子、これが兄弟ってものだと。親に(生意気な)口ばっかりきいて、わがままな子だったの。そのとき、親の顔を見て、お母さんに悪いことをした、親孝行しようと思ったんだよ」